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ロミオとジュリエットは元々宗教戦争を終わらすための作り話です〜愛の物語?ハリボテですよ?

目次

ロミオとジュリエットについて変だと思ったことはありませんか?

あんな急に恋愛始まるの変じゃないですか?

外見だけでああなったのなら、二人とも頭弱すぎる上に肉食すぎるだろってなりますよね?

なんかそこに至るまでの根拠が薄すぎて全くピンとこないですよね〜

過剰な演出に「そんなものなのかなぁ」って納得させられてるような感じ

演出といえば

ヅカ版の愛って日本版にあたって剛毛が創作して付け加えたキャラクターだって知ってましたか〜?

多分大して何も考えずに付け加えたか小柳先生が付け加えたかは全くわからないですが、偶然にも絶妙にパズルがハマってるのが面白いですよね〜

っていうのもロレンス神父いるじゃないですか

ベラドンナとか毒草採取してる謎神父

 古来からベラドンナは元々瞳孔を開かせるためのメイク道具扱いで中世ヨーロッパでは女性に人気だったらしいです〜

今でいう目が大きく見えるカラコンみたいな感じですね〜今でも鼻炎の薬に入ってるらしいですね〜

ベラドンナは西欧で自生する多年草で、最近では北アフリカおよび西アジア北アメリカの地域で帰化している。自生している場所は山間の日陰などで、湿気が多く、石灰質の肥えた土壌の場所で群生しているのを見ることができる。早春に葉に包まれた新芽を出し、全長は 40cm から 50cm 程度、最高で 5m ほどにもなる。花期は夏ぐらいまでで、紫褐色で釣鐘状の花を咲かせる。この花が過ぎた後に緑色の実をつけ、1cm ほどに膨らんで、黒色に熟していく。この実は甘いといわれるが、猛毒を含んでいるため絶対に食してはいけない。

名前は、イタリア語で「美しい女性」を意味する bella donna の読みそのままで、女性が瞳孔を拡大させるための散瞳剤として、この実の抽出物を使用したことに由来する。クレオパトラも使っていたようで、イタリアルネサンス時代には化粧法として流行していた[3]

栽培する際に注意すべき点は、日光に非常に弱いので日よけをする必要があること、栽培地によってはノミハムシの一種である Longitarsus waterhousei(日本には分布せず)の食害に遭いやすいため、定期的に農薬を散布する必要があることである。また、種子からの発芽は発芽抑制物質の存在のために容易ではないことも考慮しなければならない。

毒性

全草に毒を含むが、根茎が特に毒性が強い。また、葉の表面にも油が浮いており、これに触れるとかぶれ(ひどい場合は潰瘍)がおきる。主な毒の成分はトロパンアルカロイドで、摂取し中毒を起こすと、嘔吐や散瞳、異常興奮を起こし、最悪の場合には死に至る。これは、ハシリドコロ属のハシリドコロなどと同様の症状である。ベラドンナのトロパンアルカロイドの成分は、ヒヨスチアミンやアトロピンl-ヒヨスチアミン )、他にノルヒヨスチアミン、スコポラミン等が含まれる。これらの物質は副交感神経を麻痺させるため、先述のような症状が起こる。また、鳥類鹿ウサギなどの多くの動物はベラドンナを食べても中毒を起こさない。(は中毒を起こす)ベラドンナを食べた動物を人間が食べて死に至ってしまう場合がある。

用法・用量を守って使用すれば有用であり、成分の強い根茎と根はベラドンナコン(ベラドンナ根)という薬品として日本薬局方にも収められている。ベラドンナコンに含まれるアトロピンは硫酸アトロピンの原料になり、ベラドンナコンの成分を水またはエタノールに浸出させたものはベラドンナエキスと呼ばれる。また、ベラドンナ総アルカロイド成分は鼻みずを抑える効果があることから多くの市販鼻炎薬[6][7][8][9]に含まれることがあるため、まれに全身に発熱を伴う発疹などの薬疹症状を呈することがある[10]

https://ja.wikipedia.org/wiki/ベラドンナ#:~:text=ベラドンナ(別剌敦那,、オオハシリドコロ、セイヨウハシリドコロ%E3%80%82&text=Atropa%20bella%2Ddonna%20L.&text=リンネの『植物の種,の一つである%E3%80%82

ここでよく考えて欲しいのが、何で中世のしかも小国が点在しまくっていただけの頃のイタリアでそんな薬の知識がある神父がいたのか?ってことですね〜

中世のヨーロッパの医学なんて国によってオカルトそのものだったと思うんですけど、イタリアでは医学の発展が顕著だったようです〜

何でこんなに発展したかというと下記の引用通りなんですけど

「Anatomical Man」(「Zodiacal Man」)、TrèsRiches Heures du Duc de Berry (Ms.65、f.14v、15世紀初頭)

西ヨーロッパ中世医学は、古代の既存のアイデアやクロード・レヴィ=ストロースが「シャーマニズムの複合体」および「社会的合意」と指摘した精神的な影響の混合物で構成されていた。[1]

概要

中世初期西ローマ帝国の崩壊後、当時の標準的な医学知識は、主に修道院や他の場所に保管されていたギリシャ語ラテン語文献に基づいていた。これらの施設にはしばしば病院が併設されていた。

多くの人は、自分のすべての病気を癒すために、単に教会と神に希望を託した。病気の起源・治癒についての考えは、運命星辰の影響などの要因が、あらゆる物理的原因と同じくらい重要な役割を果たす世界観にも基づいていた。治療法の有効性は、経験的証拠ではなく、患者と医師の信念に同様に拘束されていたため、治療の物理学(物理的治療)はしばしば精神的介入に従属していた。

また、地域ごとに医学知識を代々伝承しており、民間療法が行われた。

影響

詳細は「ヒポクラテス医学」を参照

聖堂での治療

紀元前3世紀と4世紀にアスクレーピオスを祀った何百もの寺院がギリシャとローマ帝国全体に設立され、アスクレピウスに治療を求める人が特別な寮で眠ったとき、癒しのビジョンと夢が治癒過程の基礎を形成した。その人の夢の中で起こったか、夢からのアドバイスを使って彼らの病気の治療法を探がす。その後、寺院への訪問者は入浴し、祈りと犠牲を捧げ、ヒポクラテス医学の伝統に従い、投薬、食事制限、運動連隊などの他の形態の治療を受けた[2]

民間療法

中世の薬のいくつかはペイガニズムに由来した。2世紀頃からヒルデガルト・フォン・ビンゲン等のキリスト教の開業医達は 四体液説本草学から影響を受けた。

修道院

ペンシルベニア大学レア・ブック・アンド・マニュスクリプト・ライブラリーLJS 24

キリスト教の慈善の精神

キリスト教の医療奉仕は、中東(特に地元のユダヤ人から)とギリシャの影響を受けた。ユダヤ人は仲間のユダヤ人を世話する義務を負っていた。この義務は、エルサレムの神殿への巡礼者の宿泊と治療にまで及んだ。古代ギリシアでは、祭りへの訪問者のために一時的な医療援助が提供されていた[3]。それらはチャリティー(慈善)の精神から施させる。

古典医学

中世ヨーロッパ医学では、古代ギリシャ医学英語版)と中世イスラム世界の医学英語版)の両方に関する多くの医学書 が13世紀にアラビア語から翻訳された。

医学は12世紀ルネサンスの時代にさらに発展した。1030年頃に書かれたイブン・スィーナーの『医学典範』(歴代のギリシャ、インド、イスラム教の医師の医学を要約した物)。イサーク・ベン・ソロモン・イスラエリ英語版)によって書かれた『Liber pantegni英語版)』(コンスタンティヌス・アフリカヌスがラテン語に翻訳)。キンディーの『De Gradibus英語版)』がある。それらの著書を翻訳しまとめた、『ars medicinae』(医学の芸術)または『Articella英語版)』(小さな芸術)というテキストがイタリアのモンテ・カッシーノの近くのサレルノ医学校英語版)(サレルノ大学の前身とされる)で使われ、それが数世紀にわたってヨーロッパの医学教育の基礎となった。

第1回十字軍イスラム医学の影響はより強くなった。影響は相互にあり、ウサマ・イブン・ムンキッド英語版)などのイスラム学者 もヨーロッパ医学の優れたものを認めている。彼は、感染した傷を酢でうまく治療したヨーロッパの医師について説明し、無名の「フランク人」のスクロフラ英語版)(結核性頸部リンパ節炎)治療を著書で紹介している。

中世の手術

14世紀には各国語に翻訳され、中世、ヨーロッパの医師に広く読まれた、フランス人外科医ギー・ド・ショーリアックの著書『大外科書英語版)』がある。

16世紀のイタリアのパドヴァ大学ではパドヴァの解剖劇場英語版)という現存する最古の解剖劇場で学生達は教師が実際に解剖を行うのを観察して解剖学を学んだ。

進歩

銀製の鉗子と大きな歯のネックレスを備えた歯医者。Omne Bonum (イングランド-ロンドン; 1360-1375)。

ルネサンスの到来とともに、解剖および死体の検査を中心とする実験的な調査が多くなった。

医学の理論

以下に述べる理論はそれぞれ別の異なる文化や信仰上の伝統に根ざしたものであるが、一般的な理解と実践的医学の中ではすべてが絡み合っている。例えばベネディクト会の女子修道院長にして治癒者であるビンゲンの聖ヒルデガルドは、黒胆汁質やその他の気質的不均衡が悪魔と罪という存在によって直接的に引き起こされると主張した[4]。異なる医学理論が融合をみせる他の例としては、「エルフの一撃」(en:elf-shot、妖精たちに起因する病)とその適切な処置に関してのキリスト教とキリスト教以前の信仰の結びつきが挙げられる。妖精たちが病を引き起こすという考え方は、前キリスト教的な俗信が、悪霊や悪魔による病の発現というキリスト教的な考えに発展したものであった[5]。この種のものや他のタイプの病気に対する治療法には、医療におけるキリスト教と前キリスト教的、もしくは異教的な概念との並存が反映されている。

四体液

静脈を示す13世紀の図。

詳細は「四体液説」を参照

中世ヨーロッパの医学の基礎をなす根本原理は、体液に関する理論であった。これは古代の医療の著書に由来し、19世紀まで西ヨーロッパの医学界を支配していた。この理論は一人一人の人間の体内に主要な液体というべき4種の体液が存在すると説明する。すなわち黒胆汁・黄胆汁・粘液・血液である。これらは体内のさまざまな器官で作られ、人間が健康を維持するためにはそのバランスが保たれていなければならない。例えば、粘液が多すぎる場合には肺機能に問題を生じるので、身体は咳き込んで粘液(痰)を吐き出しバランスを修復しようとする。人間の体液のバランスは食事療法、内服薬、またはヒルを使った瀉血により改善できる。また四体液は四季にも関連付けられており、黒胆汁は秋、黄胆汁は夏、粘液は冬、血液は春に対応する。

体液気質器官性質四大元素
黒胆汁憂鬱質 en:Melancholia脾臓冷・乾
粘液粘液質 en:Phlegmatic冷・湿
血液多血質 en:Sanguine熱・湿空気
黄胆汁胆汁質 en:Choleric胆嚢熱・乾

また西洋占星術における十二宮のサインも対応する体液と関連付けられている。現代においても「胆汁質」「粘液質」「多血質」「憂鬱質(メランコリック)」という言葉で性格の個性を表現することがある。

薬草学と植物学

詳細は「本草学」および「植物学」を参照

Dioscoridis: De materia medica

精神障害

当時精神障害の治療は、穿頭という頭蓋骨に穴を開け頭骨内にある「良くない(霊的な)モノ」を外部に出す治療や、瀉血が行われていた。

キリスト教の解釈

中世の医学は、出家生活を通じた医学書の普及だけでなく、医学的治療や理論に関連した病気の信念を通じてもキリスト教に根ざしていた。 教会は、神が時々病気を罰として送ったこと、そしてこれらの場合、悔い改めは回復につながる可能性があることを教えた。これは、病気を治す手段としての苦行と巡礼の実践につながった[6]

たとえば、ペストは罪を犯したことに対する神からの罰であると考えられていたが、神がすべての自然現象の原因であると信じられていたため、ペストの物理的な原因も科学的に説明できた。ペストについてより広く受け入れられている科学的説明の1つは、腐敗物質などの汚染物質や空気に不快な臭いを与えるものがペストの蔓延を引き起こした空気の腐敗だった[7]

中世ヨーロッパの医科大学

医学は旧来の自由七科には含まれていなかった。医学は学問というよりも手仕事だと考えられていた。とはいえ、最初期(12世紀)のヨーロッパの大学でも医学科が設立され、イスラム医学が取り入れられた。イスラム圏と接する地中海地域では、11世紀イタリアサレルノ医科大学英語版)が設立され、組織的なプロフェッショナル医学が再興された。サレルノ医科大学では、モンテ・カッシーノ修道院の協力を得て、東ローマ帝国・アラブの研究成果が翻訳された。12世紀には、イタリアその他で大学が設立され、その中ですぐに医学部が作られていった。古代の大家のもつ信頼性は、個々の観察や実験によって徐々に補足されていった。

外科については、中世ヨーロッパでは、ガレノスの外科手術に関する著作が大学課程における主要テキストであった。ガレノスの人体観が絶対視されていたが、外科の技術は中世の間に大きく進歩した。ルッジェーロ・フルガルド英語版)はサレルノ医科大学に外科部門を創設し、『外科医術』(Chirurgia Magistri Rogerii)を著し[8][9]、現代に至るまでの西洋の外科処置法の基礎を築いた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/中世ヨーロッパの医学

これはおそらくなんですが、中世ヨーロッパでイタリアが医療知識の最先端を行っていたのは、処刑人と聖職者と医師をかねている人が多かったからではないかと思います〜

ヨーロッパで産業革命が起こる近代までそのスタイルを残していたのがフランスイタリアドイツ

処刑は苦痛なく殺すというのが中々難しいらしく、特殊技術を持った貴族やマイスターが行っていたのが上記の3カ国ですね〜

無論同じようなスタイルで文化を紡いだ国も存在しますが、中心はその3カ国なんでここではその3カ国に言及していきたいと思います〜

ちなみにイギリスでは処刑人は同じく死刑囚が担う、つまり死刑囚を死刑囚が殺すということが19世紀くらいまで行われていたらしいです〜

処刑人の扱いが全然違うし、根本的に死への向き合い方が違いますよね。イギリスはむしろ苦痛を与えてなんぼみたいな

それは中国にも言えることですが、対照的に日本は切腹やら解釈やら独特の生死観ですよね〜

つまりロレンス神父に毒に対する知識があった時点であの人は処刑に関連している聖職者だとわかります〜

おそらくイタリアでは処刑された人の司法解剖や、薬学を発達させるために一部の処刑者は毒殺にしていたんじゃないでしょうか〜

それを聖職者が執り行うのは理にかなっているかもしれませんね〜

ちなみに世界最古の薬局はイタリアにあります〜

サンタマリアノヴェッラというらしんですけど、日本ではサンタマリアヴェッラという店舗で展開してますね〜阪急梅田に入ったりしてますね〜メジャーな百貨店とかによく入ってるイメージですね〜

話がそれましたが、以上の情報から考察するにロミジュリの冒頭で死が出てきてその後色々あってロレンス神父出てくるじゃないですか、ベラドンナ持って

ベラドンナって美しい女性って意味のイタリア語なんですよね〜つまりもうその時点でロレンス神父がジュリエットを結果的に殺すことになることが暗示されてるんですよね〜

慈愛と死

おそらく剛毛から一方的にお気に入りの礼さんに役つけろって言われて小柳先生が作った愛って役だろうと思うんですけど、物語の本質をついた絶妙なキャラクターですよね〜

結果的に神父の別側面

医師と処刑人、慈愛と死を舞台上で表現してます〜

ロミジュリを作ったシェイクスピアの思惑は?

まずはこれを読んでいただきたいです〜

中世の頃にモンテッキ家とカプレーティ家という名の2つの名家が存在していたのはどうやら史実に近いよう。イタリアの著名な詩人、ダンテ・アリギエーリも14世紀初めに発表した「神曲」煉獄編の一節において「地方の名家同士が争いを繰り返している」ことを嘆き、その有名な例えとしてヴェローナの「モンテッキ家」とクレモナの「カッペッレッティ家」の対立を挙げている。(もっとも、その背景にはローマ教皇を支持する教皇派と神聖ローマ皇帝を支持する皇帝派の対立があったわけだ。)

しかしながら、ロミオとジュリエットの存在が確認されたことはない。物語の中ではヴェローナの「カプレーティ家」として登場するジュリエットの出身家も、クレモナの「カッペッレッティ家」から脚色されたと見られている。

「ロミオの家」も存在するが私有地で入ることはできず、ダンテの詩などが掲げられているのみ。
https://serai.jp/tour/1071803

そもそも、シェイクスピアによる「ロミオとジュリエット」の初演は1595年頃。実はその120年も前、1476年に南イタリア、サレルノの詩人、マスッチョ・サレルニターノがシエナを舞台に書いた悲恋の物語がそのベースになっているという説が有力だ。そこからヒントを得たイタリアの作家ルイージ・ダ・ポルトが「ロミオとジュリエット」を1530年に発表。さらに、マッテオ・バンデッロなどのイタリアの作家たちが脚色して出版したものをイギリスの詩人アーサー・ブルックが英語とフランス語に翻訳し、それをシェイクスピアが劇用に仕上げたという。つまり、「シェイクスピアはヴェローナに来たことがあるか?」という質問にすら、YESと答えられないわけだ。

ヴェローナにあるシェイクスピアの胸像(18世紀)。

では、なぜジュリエットの家やお墓が存在するのか。それは1930年代に遡る。ヴェローナ出身の歴史家アントニオ・アヴェナがヴェローナの町にシェイクスピア・ミュージアムを作るプロジェクトを立ち上げたのだ。実はそれよりも前から、シェイクスピアを誇るイギリスの観光客たちは、ヴェローナを訪れては「ロミオとジュリエット」の聖地を探し求め、推測でこのお墓などを回っていたらしい。それを「ジュリエットのお墓」と正式に位置づけたのがアヴェナ。

家に関しても観光客の期待に応え、ヴェローナの中心地にある13世紀頃のそれらしき建物を「ジュリエットの家」と定めた。(カペッロ家が住んでいた家ということで、その名前の響きが似ていることも決め手になったのかもしれない。)そして、名シーンを再現すべく、なんと市立カステルヴェッキオ美術館の倉庫に眠っていた石棺を運び出し、1937年にバルコニーとして取り付けたのである。

https://serai.jp/tour/1071803

だから神父なんですね〜

ここで気づいて欲しいのがイギリス正教は16世紀からプロテスタントに近い教義になっていきますね〜

民間ではプロテスタントが多かったそうですね〜

しかも宗教戦争に真っ只中に神父出てくる話を上映ですか?王室お抱えの御用劇作家が?

そう、イギリスで上映するのにカトリックの愛の話してるの状況的に変なんですよね

ちなみにこの時

カンタベリー管区のカンタベリー大聖堂
ヨーク管区のヨーク大聖堂

キリスト教の到来

グレートブリテン島キリスト教が初めて到来したのは、ローマ帝国時代の紀元200年頃のことであると考えられている。イングランド(ブリタンニア)はローマ帝国に征服されたため、禁教時代でも、軍人、貿易商人のなかに信者がいた。イングランド南部にセント・オールバンズという市があるが、ここで3世紀初めに聖オルバン英語版)が殉教したという伝説も生まれている。キリスト教はウェールズスコットランドアイルランドへも別々に宣教されて、ローマ人の撤退後も残った。

しかし、キリスト教の歴史の中では正式なイングランドの宣教は、カンタベリーのアウグスティヌスによるものを最初であると見なしている。アウグスティヌスは教皇グレゴリウス1世の命により、ケントエゼルベルト王の元へと派遣された宣教師であった。597年、アウグスティヌスは初代カンタベリー大司教に着座する。これが聖公会の起源の一つとされる。664年に行われたウィットビー教会会議ではノーサンブリアのオスウィの指導により、それまで用いられてきたケルト的典礼を廃し、ローマ式典礼を取り入れることを決定したことが大きな意義を持っている[注釈 1]

他のヨーロッパ諸国と同様に、イギリスでも中世後期以降、王権教皇権の争いが顕著となった。論点となったのは教会の保有する資産の問題、聖職者に対する裁判権聖職叙任権などであった。特にヘンリー2世ジョン王の時代に王と教皇が激しく争った。

ローマとの分裂

王権と教皇権の争いはあっても、イングランドの教会は中世を通じてローマとの一致を保ち続けていた。イングランド教会とローマの間に最初の決定的な分裂が生じたのは、ヘンリー8世の時代である。その原因はヘンリー8世の離婚問題がこじれたことにあった。すなわち、キャサリン・オブ・アラゴンと離婚しようとしたヘンリー8世が、教皇に婚姻の無効を宣言するよう求めたにもかかわらず、教皇クレメンス7世がこれを却下したことが引き金となった。これは単なる離婚問題というより、キャサリンの甥にあたる神聖ローマ皇帝カール5世の思惑なども絡んだ、複雑な政治問題であった。

ヘンリー8世は1527年に教皇に対して、キャサリンとの結婚の無効を認めるように願った。1529年までに繰り返し行われた教皇への働きかけが失敗に終わると、ヘンリー8世は態度を変え、さまざまな古代以来の文献を基に、霊的首位権もまた王にあり、教皇の首位権は違法であるという論文をまとめ、教皇に送付した。続いて1531年にはイングランドの聖職者たちに対し、王による裁判権を保留する代わりに10万ポンドを支払うよう求めた。これはヘンリー8世が聖職者にとっても首長であり、保護者であるということをはっきりと示すものとなった。1531年2月11日、イングランドの聖職者たちはヘンリー8世がイングランド教会の首長であると認める決議を行った。しかし、ここに至ってもヘンリー8世は教皇との和解を模索していた。

1532年5月になると、イングランドの聖職者会は自らの法的独立を放棄し、完全に王に従う旨を発表した。1533年には上告禁止法が制定され、それまで認められていた聖職者の教皇への上訴が禁じられ、カンタベリーヨークの大司教が教会裁治の権力を保持することになった。ヘンリー8世の言いなりであったトマス・クランマーカンタベリー大司教の座に就くと、先の裁定に従ってクランマーが王の婚姻無効を認め、王はアン・ブーリンと再婚した。教皇がヘンリー8世を破門したことで両者の分裂は決定的となった。ヘンリー8世は1534年国王至上法(首長令)を公布してイングランドの教会のトップに君臨した。イングランドの教会を自由に出来る地位に就いたことは、ヘンリー8世が離婚を自由にできるというだけでなく、教会財産を思うままにしたいという誘惑を感じさせるものとなった。やがてトマス・クロムウェルのもとで委員会が結成され修道院解散が断行、修道院が保持していた財産が国家へ移されていった。こうしてイングランドの修道院は破壊され、荒廃した。

プロテスタント運動との関係

ローマと袂を分かったとはいえ、イングランド教会は決してプロテスタントではなかった。ヘンリー8世はもともとプロテスタントを攻撃する論文を発表して教皇レオ10世から「信仰の擁護者」(Defender of the Faith)という称号を与えられており、それを誇っていた。ヘンリー8世がローマと訣別したことで、大陸のプロテスタント運動が急速にイングランドに流入し、聖像破壊、巡礼地の撤廃、聖人暦の廃止などを行った。しかしヘンリー8世自身は信条としてカトリックそのものであり、1539年のイングランド教会の6箇条においてイングランド教会がカトリック教会的な性質を持ち続けることを宣言している。

変革を嫌ったヘンリー8世と違った息子エドワード6世の下で、イングランド教会は最初の変革を断行した。それは典礼・祈祷書の英語翻訳であり、プロテスタント的な信仰の確立が目指された。こうして国家事業として出版されたのが1549年の『イングランド国教会祈祷書』であり、1552年に最初の改訂が行われた。

分裂反動と「中道」(Via Media)

ウィキソースにThe Great Encyclical Letters of Pope Leo XIII/Anglican Ordersの原文があります。

エドワード6世の死後、異母姉でキャサリン・オブ・アラゴンの娘メアリー1世が王位に就いた。熱心なカトリック教徒であったメアリー1世はヘンリー8世とエドワード6世の時代に行われた典礼の改革をすべて廃し、再びイングランドをカトリックに戻そうとした。しかし反感を買い、メアリー1世の死後、カトリックへの復帰運動は消えた。

真の意味でのイングランド国教会のスタートは、1558年に王位に就いたアン・ブーリンの娘でメアリー1世の異母妹エリザベス1世の下で切られることになる。エリザベス1世は教皇の影響力がイングランドに及ぶことを阻止しようとしていたが、ローマからの完全な分離までは望んでいなかった。神聖ローマ皇帝カール5世が彼女をかばったこともあって、エリザベス1世は1570年ピウス5世の時代まで破門されることはなかった。

イングランド国教会が正式にローマから分かれることになるのは1559年である。議会はエリザベス1世を「信仰の擁護者」(首長)として認識し、首長令を採択して反プロテスタント的法を廃止した。さらに女王は1563年の聖職者会議で「イングランド国教会の39箇条」を制定し、イングランド国内の国教会を強化した。

詳細は「聖公会#中道(Via Media)の教会」を参照

清教徒革命

このころから、イングランドにおける清教徒(ピューリタン)と国教会派の対立が深刻化した。1603年に即位したジェームズ1世は強く国教会派を支持、また王権神授説を称えて国王の絶対性を主張したため、プロテスタント諸派から反感を持たれたが、一方で欽定訳聖書の出版を指示するなど、宗教的な貢献も大きかった。チャールズ1世の治世では国教会派がスコットランドにも教化しようとしたために、反発した人々の手によって清教徒革命イングランド内戦)が勃発し、敗れたチャールズ1世は1649年に処刑された。しかしその後、王政復古名誉革命を経て、かえって国教会主流派の地位は強化された。非国教徒は名誉革命以降、1828年に審査律が廃止されるまで公職に着く事が禁じられた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/イングランド国教会#外部リンク

こんなこと起きてたんですね〜

つまりロミオとジュリエットは教皇派と皇帝派の行き着く先を強烈に悲劇的に描くことで、宗教戦争を鎮静化しようとした作品なんですね〜

ここで思い出して欲しいのがベラドンナ

あれを強調する演出にシェイクスピアが込めたのはどんなメッセージだったのか?

私はこう思うんですよ

不幸を引き起こす原因を作っているのはいつもカトリックだ!!瞳が大きく見えると行ってベラドンナの粉末を化粧品として売り、不調になった女性に薬だと行って毒を売り、体調不良が激化した女性に神の加護が必要だと言って信心を強要して見返りに解毒薬を売っている!!男どもは教会と社会的地位を得るためいつも教会へのお布施という賄賂と政略戦争をしている、そしてそれを煽っているのがカトリック!!お前たちだ!!

って今も同じですよね

新型コロナワクチンとかいかにもじゃないですか?

あの時代民衆もイギリスもカトリックへの不満を募らせて爆発させていた

民衆に推されてしょうがなくプロテスタント化しましたっていう理由をつけてプロテスタントに近いカトリックを国教にするためにこのお芝居は作られたんですね〜

だからエリザベス女王という響きはいまだに支持されるんですね〜

ヴィオレトピアの蛇は神父を意味するのではという考察

ヴィオレトピアのこっさんの蛇って思いっきりロミジュリの愛と死ですよね〜

蛇はアスクレピオスの象徴、WHOのロゴにも使われてますね〜

つまり蛇は医師と処刑人、慈愛と死を表現してるんですね〜っていう私の考察です〜

指田先生頭いい!!

あそこの場面で現れていない側面は聖職者

つまり蛇を演じているようで神父を演じてるんですね〜

なこさんのあれはエリザベートですかね〜

蛇が執拗に追いかけるのはエスターライヒなのかヤノス・マジェラートと付き合ってた頃に覚えてしまったアドレノクロムに魅了されて同じバートリー州出身のエリザベート・バートリーに取り憑かれたかのような、少女の血を啜る吸血鬼とかした悪魔だったのか?

蛇の邪魔をしている暁さんが演じる悪魔はどんな悪魔なのでしょうか?どんなハザリアンマフィアなのかな〜

本当にヴィオレトピアは観る人の知性と知識を試してくる、代々キャッチーさに振り切ってきたような持ち味が売りの星組にはかなり難易度の高いショーですね〜

キャッチーさとは程遠い

見るものにレポートの提出を求める芸大の講義のような作品ですね〜

お勉強ができない低脳な私には難解すぎますね〜

是非とも芸術の造形の深い方に見ていただいて考察して欲しいものです〜

今回は以上です〜

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