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指定暴力団:住吉会と自民党議員を多く輩出する日本青年社の関係

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たまにいいこと書いてるしんぶん赤旗

自民党、民主党などの国会議員でつくる「日本の領土を守るため行動する議員連盟」(会長・森岡正宏衆院議員=自民)は三日、国会内で開いた会合に右翼団体の日本青年社幹部を招き、感謝のことばをささげました。

 日本青年社は一九七八年に尖閣諸島の魚釣島に上陸したことで知られる右翼団体。一九六九年に結成され、指定暴力団・住吉会との関係が深いことは、警察庁も国会で認めています。昨年十月には最高幹部の一人が恐喝未遂容疑で警視庁に逮捕されています。

 同日の会合で山崎誠日本青年社総局長が「最近の尖閣諸島をめぐる動き」について約三十分間、説明しました。森岡会長はあいさつで「あの島を守ってくれた日本青年社に感謝をしなくてはならない」と日本青年社の活動を称賛しました。

 会合には自民党は玉沢徳一郎元防衛庁長官、岩屋毅国防部会長ら、民主党は原口一博、渡辺周、松原仁の各氏ら、十五人ほどが出席しました。

 会合に呼ばれていた内閣府、海上保安庁の係官は「(右翼団体との)同席は困る」(森岡会長の説明)として、時間をずらして出席しました。

 自民、民主の若手有力議員が加わる会合で、国会施設内に白昼堂々、右翼団体幹部を呼び込んだことから国会運営上の問題にも発展しそうです。https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-03-04/02_05.html

日本青年社とは?

日本青年社(にほんせいねんしゃ)は、一九七八年に尖閣諸島の魚釣島に上陸したことで知られる右翼団体です。一九六九年に結成され、その指定暴力団との関係が深いことは、警察庁も国会で認めています。また、昨年十月には最高幹部の一人が恐喝未遂容疑で警視庁に逮捕されています。

日本青年社は、尖閣諸島をめぐる動きについて積極的に活動しており、保守的な政治団体や政治家との関係もあります。ただし、その活動や存在自体には賛否があり、国内外で議論を呼んでいる団体です。

日本青年社は、一九六九年に結成された右翼団体です。設立の経緯は以下のようになっています。

当時、日本政府は尖閣諸島(中国名:釣魚島)の領有権を主張していましたが、中華民国(台湾)もまた、同じ領土を主張していました。この争いを背景に、日本の一部の右派団体が結集し、尖閣諸島の実効支配を目指すために結成されたのが日本青年社です。

一九七八年、日本青年社は魚釣島に上陸し、実効支配を行いました。この行動は、日本の領土問題に対する強い主張として注目されました。その後も、日本青年社は尖閣諸島の守護を自らの使命とし、積極的な活動を展開してきました。

ただし、日本青年社の設立や活動は、賛否両論を巻き起こしています。一部では、彼らの行動が日本の国益を擁護し、領土問題に対する強い意志を示していると評価されています。一方で、その手法や思想には批判的な声もあり、議論を呼んでいます。

日本青年社の設立の経緯は、尖閣諸島問題や日本の国内政治状況を理解する上で重要な要素です。

日本青年社の代表については具体的な情報が見つかりませんでした。彼らの組織の構造やリーダーシップについてはあまり公にされていないようです。そのため、代表者に関する正確な情報を提供することはできません。

日本青年社と住吉会は、深い関係があるとされています。住吉会は、指定暴力団として知られる組織であり、日本国内外での暴力行為や犯罪活動が問題視されています。この組織と日本青年社との関係は、警察庁や国会でも認識されています。

具体的には、日本青年社の結成時から住吉会との関係が深く、両者は一部で協力関係を築いてきました。報道によれば、住吉会は日本青年社に対する資金援助や武器提供などを行っていたとされています。また、一部のメンバーが両組織に所属していることも報じられています。

ただし、日本青年社全体が住吉会に属しているわけではありません。あくまで一部のメンバーが関係しているということです。一方で、このような関係が存在することが国内外で問題視され、議論の対象となっています。

日本青年社と住吉会の関係については、正確な情報が限定されており、詳細な内部の経緯や具体的な関与度については公にされていない部分も多いです。したがって、この関係性についてはさらなる確認や詳細な調査が必要です。

初代会長は住吉会系小林会会長

小林 楠扶(こばやし くすお、1930年 – 1990年1月11日)は、日本ヤクザ右翼活動家。暴力団住吉連合会(後の住吉会)本部長、住吉一家 小林会初代会長、右翼団体日本青年社初代会長。 帝京商業学校(後の帝京大学中学校高等学校)卒業[1]

略歴

昭和36年(1961年)10月13日、東京都大田区雪谷で、右翼団体楠皇道隊」を結成した[2]。 

同年、楠皇道隊本部を東京都中央区銀座7-2-2に移した[2]。「銀座の黒豹」の異名をとった[3]。。

昭和44年(1969年)3月18日、楠皇道隊を発展的に解消させ、「日本青年社」を結成し、初代会長に就任した[2]。 同日、明治神宮で、290名が参加して、結成式を行い、その後、ホテルニューオータニの芙蓉の間で結成披露宴を開催した[2]。 

平成2年(1990年)1月11日、死去した[2]。https://ja.wikipedia.org/wiki/小林楠扶#人物・エピソード

創価との関係も

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