2度の大戦に関連する日本最大の闇”阿片窟”で儲けた三井財閥をはじめとした財閥企業
三井が阿片運搬で大儲けしていくきっかけを作ったのがアジアの阿片王「里見甫」です〜
明治から今日まで続く暗黒を作った張本人です〜
里見 甫(さとみ はじめ、1896年(明治29年)1月22日 – 1965年(昭和40年)3月21日)は、ジャーナリスト、実業家。三井物産のもとで関東軍と結託しアヘン取引組織を作り、阿片王と呼ばれた。
来歴・人物
旧加賀藩の上級家臣である平士で、安房里見氏の末裔の元海軍軍医で退役後に日本各地の無医村をまわっていた里見乙三郎とスミの長男として、赴任地の秋田県山本郡能代町(現・能代市)に生まれる。弟に皋。妻は相馬ウメ(=里見由美)(1933.9〜1959.6離婚)、湯村治子(1959.7〜)。子は里見泰啓(1959.11誕生)。1913年、福岡県立中学修猷館を卒業し[1]、同年9月、玄洋社第二代社長進藤喜平太の助力により、福岡市からの留学生として上海の東亜同文書院に入学する。
1916年5月、東亜同文書院を卒業後、青島の貿易会社に一時期勤務するが退社し、帰国して東京で日雇い労働者となる。1919年8月、同文書院の後輩である朝日新聞北京支局の記者であった中山優の計らいで、橘樸が主筆を務める天津の邦字紙である京津日日新聞の記者となる。1922年5月には第一次奉直戦争に際して張作霖との単独会見を行っている。1923年6月、京津日日新聞の北京版として北京新聞が創刊されるとその主幹兼編集長に就任する。ここでの新聞記者活動を通じて、関東軍の参謀であった板垣征四郎や石原莞爾と知己となり、国民党の郭沫若と親交を結び、蔣介石との会見を行うなどして、国民党との人脈も形成された。1928年5月の済南事件では、日本軍の建川美次少将、原田熊吉少佐、田中隆吉大尉から国民党との調停を依頼され、2ヶ月に亙る秘密工作の末、国民党側との協定文書の調印を取り付けている。
1928年8月、南満洲鉄道(以下「満鉄」)南京事務所の嘱託となり南京に移る [2]。ここで、国民政府に対し満鉄の機関車売り込みに成功するなど華々しい業績をあげている。
1931年9月に満洲事変が勃発すると、翌10月に関東軍で対満政策を担当する司令部第4課の嘱託辞令を受けて奉天に移り、奉天特務機関長土肥原賢二大佐の指揮下で、甘粕正彦と共に諜報、宣伝、宣撫の活動を担当する。これらの活動を通じ、中国の地下組織との人脈が形成された。また司令部第4課課長松井太久郎の指示により、満洲におけるナショナル・ニュース・エージェンシー(国家代表通信社)設立工作に務め、陸軍省軍務局課長鈴木貞一の協力のもと、新聞聯合社(以下「聯合」)の創設者岩永裕吉や総支配人古野伊之助、電通の創業者光永星郎との交渉を行い、1932年12月、満洲における聯合と電通の通信網を統合した国策会社である満洲国通信社(以下「国通」)が設立され、初代主幹(事実上の社長)兼主筆に就任する [3]。 1933年5月には、聯合上海支局長であった松本重治に、ロイター通信社極東支配人であり、後に同社総支配人(社長)となるクリストファー・チャンセラー(Christopher Chancellor)との交渉の斡旋を依頼して、交渉の末ロイターとの通信提携契約を結び、国通の名を国際的に印象付けている。1935年10月国通を退社し、同年12月、関東軍の意向により、天津の華字紙「庸報」の社長に就任する。1936年9月、5年住んだ満洲を去る。
1937年11月、上海に移り、参謀本部第8課(謀略課)課長影佐禎昭に、中国の地下組織や関東軍との太い人脈と、抜群の中国語力を見込まれ、陸軍特務部の楠本実隆大佐を通じて特務資金調達のための阿片売買を依頼される。1938年3月、阿片売買のために三井物産および興亜院主導で設置された宏済善堂[4]の副董事長(事実上の社長)に就任する。ここで、三井物産、三菱商事、大倉商事が共同出資して設立された商社であり実態は陸軍の特務機関であった昭和通商や、中国の地下組織青幇や紅幇などとも連携し、1939年、上海でのアヘン密売を取り仕切る里見機関を設立[5]。ペルシャ産や蒙古産の阿片の売買によって得た莫大な利益を関東軍の戦費に充て、一部は日本の傀儡であった汪兆銘の南京国民政府にも回した。また、里見機関は、関東軍が極秘に生産していた満洲産阿片や、日本軍が生産していた海南島産阿片も取り扱っている。この活動を通じて、青幇の杜月笙、盛文頤や、笹川良一、児玉誉士夫、吉田裕彦、岩田幸雄、許斐氏利、阪田誠盛、清水行之助らとの地下人脈が形成された[6]。
1943年12月、宏済善堂を辞し、満鉄と中華航空の顧問となる。1945年9月に帰国し京都や東京に潜伏するが、1946年3月に民間人第一号のA級戦犯容疑者としてGHQにより逮捕され、巣鴨プリズンに入所する。1946年9月、極東国際軍事裁判に出廷して証言を行い、同月不起訴となり無条件で釈放される。その後、渋谷峰岸ビル(現在のQFRONT)に日本商事(医薬品関連の日本商事とは別)を構え代表に就任する。戦後、祖神道本部の熱心な信者となった。
1965年3月21日、家族と歓談中に心臓麻痺に襲われ死去。享年70。千葉県市川市国府台の總寧寺にある里見の墓の墓碑銘「里見家之墓」は、岸信介元首相の揮毫による。
実験場としての満洲
「里見は、電通が今のような広告会社になったきっかけを作った一人である」とした佐野眞一の一文がある。電通通信史刊行会の「電通通信史」 (1976; 以下『電通史』と略す) によると現在の広告代理店の電通は光永星郎を創業者とする「日本電報通信社」という通信社に始まっている。光永は日清戦争で従軍記者だった経験をもつが、戦場から記事を書いても新聞が記事を掲載しなかったり、掲載しても時間が遅いなどに不満をもち自ら通信社を興し日本中の新聞に迅速にニュースを送るという大望を抱いた (詳細は通信社の歴史を参照)。
御手洗辰雄の「新聞太平記」 (1952; 以下『太平記』と略す) では、光永が通信社経営のために苦心した様子が描かれている。光永はニュースを新聞社へ売ったとしてもそれだけでは経営が立ち行かないと考え、全国の新聞の広告欄について広告主と新聞の仲介者として手数料を取る広告代理店の業務を兼業し、ニュース配信と金銭の流れとしては相殺するアイデアに至る。通信社が広告代理店となったのはこれが最初ではなくフランスのアヴァスにも例があり、国内でも光永が最初ではない。しかし新聞市場を科学的に研究した光永は「新聞年鑑」を発行するなどプランを実現化する (詳細は通信社の歴史を参照)。
月間の広告取扱高は150万円、日本の新聞広告の7割を掌握し、株主配当7分という優良企業に成長した電通は銀座の顔となった8階建ての自社ビルを建てる (『電通史』)。ただし、同時に新聞の部数を把握して新聞社の生命線である広告単価を握っていた電通のやり口は周囲の反感をもたれていたとする見方もある (『太平記』)。新聞と広告の二本柱で「国を代表する通信社」となった電通を広告のみと分割させたのは、情報局を背景とする国家代表通信社「同盟通信社」の創設である。
これを電通のライバルである「新聞連合社」の古野伊之助の策謀にあると見る者がある。駄場裕司は『後藤新平をめぐる権力構造の研究』 (2007) で、同盟通信社設立を取り上げた朴順愛「『十五年戦争期』における内閣情報機構」(『メディア史研究』第3号、1995)についてその硬直性に言及しているが、現在は広く以下の観点が一般的である。
即ち、戦前の日本の新聞社は外国からのニュースを通信社から得ていたが、古野は国家の中枢に働きかけ外国から情報を得る通信社を一元させようとして電通を切り崩しにかかったとする見方である。これは国家の情報統制と歩みを一つにしているとする見方である。このステップとなったのが満洲における電通勢力の排除であり、その結果として「満洲国通信社」は創設されたとする見方である。関東軍は当初、満洲国通信社を里見ではなく陸軍の長老である高柳保太郎に任せようとしていた。時代遅れの高柳にさせられないと現地の佐々木健児が本庄繁に推薦したのが兄事していた里見であった。(満洲国通信社の『国通十年史』 (言論統制文献資料集成に収録) による)。里見はこれにより初代主幹となる。ちなみに里見の役職は組織が曖昧なため主幹という名称となっている。
ただし古野と里見の意図した点はそれだけではなく、強力な単一の通信社を作らせて通信網を独占させ、さらに満洲における新聞資本を1つにまとめあげ、そのうえで単一通信社と単一新聞社を包括したメディア機関を作る点にあった。日本における新聞統合の実験場としての「満洲弘報協会」が設立される。古野と里見はそれぞれ関東軍に「満洲弘報協会設立要綱」「満洲弘報協会設立に関する意見」という論文を提出した。しかし里見は国通を離れ(1936.3.31)、満洲弘報協会の理事長に高柳(1936.9.28〜1937.6.30)となると、高柳は当初の構想の意味をまったく理解できず、古野は国通の社長と弘報の理事長は兼任とさせて元朝日新聞の森田久を据えた。
『国通十年史』では本庄に創設に関する研究を指示された里見だが、通信社と国内の情報機関についての内情が不明なため、1932年に来日した際に面識のあった大阪の能島進 (電通支社長) に説明をもらった上で白鳥敏夫、鈴木貞一、上田碩三、古野伊之助と面談して組織の基盤作りにも松本重治の協力を求めたとしている。佐野の一文はこのような背景がある。(佐野眞一『阿片王 満州の夜と霧』)
脚注
- ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』同窓会員10頁
- ^ 陸満普大日記 昭和7年
昭和7.10.1〜7.10.5 「満受大日記(普)其21」
陸軍省 憲兵司令官 外山豐造
昭和6年11月19日
「陸満普受第四五七号 邦人秘密情報機関設置ニ関スル件報告(通牒) 昭和六年十一月十九日 憲兵司令官 外山豐造 陸軍大臣 南次郎殿 首題ノ件左記報告(通牒)ス 左記 前満州日報編集長 竹内克己 右者従来往々反軍的行動アリシ者ナルカ十月二十九日満州日報社株主総会ニ於テ編集長ヲ辞シ大連ニ国際情報局ヲ設置正式ニ関東庁ノ許可ヲ 受クヘク準備中ノ処許可ノ可能性ナキ為メ私信ノ形式ニテ欧文情報ヲ発行シ希望者ニ配布シツツアリト 因ニ本名ノ情報関係連絡者次ノ如シ、里見甫 満鉄南京駐在員 波多野貫一、時事新聞記者 鵞澤與二、時事新聞北京特派員 高木陸郎、中日実業副総裁 日笠芳太郎、満日東京支局顧問(久原系) 小林和助、大連取引所長」- ^ 陸満普大日記 昭和8.5.2〜8.5.15 「満受大日記(普)其8 2/2」
陸軍省 関東軍参謀長 小磯國昭
昭和8年4月3日
「陸満普受第一五一三号 満洲国通信社主幹帰朝ニ関スル件 昭和八年四月三日 関東軍参謀長 小磯國昭 陸軍次官 柳川平助殿 満洲国通信社主幹里見甫本月四日当地出発帰朝ス其ノ用務ハ可成速ニ東京ニ満洲国通信社支社ヲ設置スル方針ノ下ニ調査並交渉等ノ諸準備ヲ為サムトスルニアリテ本件ハ同社内容充実ノ為重要ナル事項ナルノミナラス連合並電通トノ間ニ既有契約ノ改訂ヲ要シ相当困難ナル問題ト予想セラルルヲ以テ外務省側トモ連絡ノ上可然指導並助力ヲ与ヘラレ度 追而参考ノ為満洲国通信社内容充実ニ関スル弘報委員会幹事会 決議事項ヲ添付ス 第五回弘報委員会幹事会決議事項 議題第一 満洲国通信社内容充実ニ関スル件 議決 東京支社設置ニ関スル件〜」- ^ 杜月笙ら青幇の指導者をリーダーに立てて、中国人だけで販売と集金がなされた。竹森久朝 『見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P 54
- ^ 三井物産は一両つまり32グラムを35円で軍に納入し、これを里見機関がグラムあたり22-23円で宏済善堂に卸した。四川省産よりも品質の良いペルシャ産のアヘンはサスーン財閥系によって上海に流入したが、これを三井物産上海支店が仕入れていた。この上海支店には佐藤喜一郎がおり、調達資金を工面していた。竹森久朝 『見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P 54
- ^ また、以下の者と知己となった。・関東軍参謀長であった東條英機・満洲国総務庁次長であった岸信介・古海忠之古海は後に里見の葬儀委員長を務めた。・満洲国民政部禁煙総局長であった難波経一・満洲国産業部鉱工司長であった椎名悦三郎・岸信介の実弟であり当時鉄道省から上海の華中鉄道設立のために出向していた佐藤栄作・興亜院蒙疆連絡部経済課長であった大平正芳・興亜院華北連絡部書記官であった愛知揆一・興亜院華中連絡部書記官であった長沼弘毅・海南島・厚生公司東京事務所責任者であった高畠義彦・上海の国策新聞「大陸新報」社長であった福家俊一・満洲国の首都新京特別市副市長であった関屋悌蔵
関連人物
https://ja.wikipedia.org/wiki/里見甫
太平洋戦争が起きた本当の理由は欧米を凌ぐ勢いのビッグビジネスになった日本の阿片カルテルです〜
阿片が売れなくなってルーズベルト激おこですか〜?
ちなみにルーズベルト大統領はこんな人です〜
フランクリン・D・ルーズベルト
Franklin D. Roosevelt
レオン・パースキー撮影(1944年8月21日)アメリカ合衆国
第32代大統領任期 1933年3月4日 – 1945年4月12日 副大統領 ジョン・N・ガーナー(1933年3月4日 – 1941年1月20日)
ヘンリー・A・ウォレス(1941年1月20日 – 1945年1月20日)
ハリー・S・トルーマン(1945年1月20日 – 1945年4月12日)ニューヨーク州
第44代知事任期 1929年1月1日 – 1932年12月31日 副知事 ハーバート・リーマン アメリカ合衆国
海軍次官任期 1913年3月17日 – 1920年8月26日 大統領 ウッドロウ・ウィルソン ニューヨーク州
上院議員任期 1911年1月1日 – 1913年3月17日 州知事 ジョン・オールデン・ディックス
ウィリアム・ズルツァー出生 1882年1月30日
アメリカ合衆国 ニューヨーク州ハイドパーク死去 1945年4月12日(63歳没)
アメリカ合衆国 ジョージア州ウォームスプリングス政党 民主党 出身校 ハーバード大学 配偶者 エレノア・ルーズベルト 子女 アンナ・ルーズベルト・ハルステッド
ジェームズ・ルーズベルト
フランクリン・D・ルーズベルト・ジュニア(3世)
エリオット・ルーズベルト
フランクリン・D・ルーズベルト・ジュニア
ジョン・アスピンウォール・ルーズベルト署名 フランクリン・デラノ・ルーズベルト(英語:Franklin Delano Roosevelt、[ˈfræŋklɪn ˈdɛləˌnoʊ ˈroʊzəˌvɛlt]、1882年1月30日 – 1945年4月12日)は、アメリカ合衆国の政治家[1]。ニューヨーク州議会上院議員(ダッチェス郡選出)、海軍次官、ニューヨーク州知事を歴任した。第32代アメリカ合衆国大統領(在任:1933年3月4日 – 1945年4月12日)。FDRという略称でよく知られている。尚、姓はローズベルト、ローズヴェルトとも表記する[注釈 1]。
概説
世界恐慌および第二次世界大戦当時の大統領であり、20世紀前半の国際政治における中心人物の1人である。彼の政権下でのニューディール政策と第二次世界大戦への参戦による戦時経済はアメリカ経済を世界恐慌のどん底から回復させたと評価される[注釈 2]。
ラジオを通じて国民との対話を重視した。歴代アメリカ合衆国大統領のランキングでの人気投票でほぼ上位5傑に入るなど、現在でもアメリカ国民からの支持は根強い。また、アメリカ史上唯一の重度の身体障害を持った大統領で、両足が不自由であった。
その一方で日本・ドイツ・イタリアの枢軸国勢力を敵視しマンハッタン計画を主導する一方で、ソビエト連邦最高指導者ヨシフ・スターリンに対する容共的な姿勢を取り[3]、その侵略行為を黙認したことは後に批判の対象となった[要出典]。中国に対しては中国人排斥法を廃止し、日中戦争の際に蔣介石を強く支持して莫大な軍事費の借款を行っていた上に、同国との利権も多かった[要出典]ためにアメリカと友好関係にあった国々から「中国びいき」と言われた[誰によって?]。
詳細は「チャイナ・ロビー」を参照
ルーズベルトはアメリカ政治史上で唯一4選された大統領である。初代のワシントン大統領が3選を固辞した故事から大統領は2選までというのが慣例だったが、戦時・有事を理由に1940年・1944年の大統領選挙に立候補して当選した。後に憲法改正によって(修正第22条:1951年)、正式に大統領は2期までと定められた。
アメリカ経済の回復は同時に第二次世界大戦が起こるまでの間、デトロイト市の大工業地帯[要出典]を枢軸国に対する「民主主義の兵器廠」に発展させた。これは戦後アメリカが国際的な覇権を握る原動力となった。連合国を提唱したルーズベルトの平和に対する国際組織の展望は死後に国際連合として結実した。
ルーズベルトの評価は立場で大きく分かれる。リベラル派(自由主義)から見ると、ニューディール政策をはじめとしたケインズ福祉国家的政策の開始は「恐慌への対策を具体化したもの」として評価され、「はじめて本格的な貧困層対策に取り組んだ」大統領として評価される。それまで南部の地域政党的色彩が強かった民主党に「世界恐慌の結果発生した貧困層の救済」という新たな目的を打ち出し、この2つの支持基盤を合わせる事によって「ニューディール連合」と呼ばれる大きな民主党支持基盤を形成してその後数十年に渡る議会における民主党の優位をもたらした。
保守派の中でもレーガンは、ルーズベルトのリーダーシップを賞賛した。他方、小さな政府を唱える保守派はニューディールにきわめて否定的な評価をしており、民主党のニューディール連合を崩すことで1980年代以降の共和党の勢力拡大は成功したといえる。ニューディール政策については、現在でも経済学者の間でその評価は分かれている。
また、最高裁判所判事の人事への介入による三権分立の民主主義原則への抵触や、大戦中に日系アメリカ移民に強制収容を行った事や、政権期間を通じて行われたアフリカ系アメリカ人公民権運動に対する事実上の妨害という人種差別的観点から行われた政策は、その立場を問わず各方面からの大きな批判を招いただけでなく、アメリカにおける人種差別の解消を遅らせる要因の1つとなった。
民主党政権としての「貧困層」と「人種マイノリティ」という別々の背景を持ったアメリカ社会における弱者に対する矛盾した態度の解決は、1960年代のジョン・F・ケネディとリンドン・B・ジョンソンの政権まで持ち越された。
在任日数4422日はアメリカ合衆国大統領史上最長の任期である。
生い立ちと家族
1882年1月30日、ニューヨーク州北部のハイドパークで誕生する。父のジェームズ・ルーズベルト(1828年 – 1900年)はデラウェア・アンド・ハドソン鉄道の副社長であり裕福な地主であった。ルーズベルト家[注釈 3]は1650年ごろにオランダのハールレムからニューヨーク(当時はニュー・アムステルダム)に移住したクラース・ヴァン・ルーズベルトに始まる。1788年にアイザック・ルーズベルトがポキプシーで行われたアメリカ合衆国憲法制定会議のメンバーとなり、それは曾々孫であるフランクリンの大きな誇りとなった。
18世紀にルーズベルト家は「ハイドパーク・ルーズベルト」家(19世紀から民主党支持)と「オイスター・ベイ・ルーズベルト」家(共和党支持)の二つに分かれる。オイスター・ベイの共和党員であった第26代大統領セオドア・ルーズベルトはフランクリンの遠縁の従兄であった。両家は政治的な違いにもかかわらず、親交が続いた[注釈 4]。
母のサラ・デラノ(Sara Delano, 1854年 – 1941年)はフランス系プロテスタント教徒(ユグノー)であり[注釈 5][要出典]、デラノ一族は阿片戦争のころから中国(清)とアヘンを含む貿易を手広く行って財を為していた[4][疑問点 – ノート]。フランクリンは母サラの唯一の子供(大変な難産)として、再婚だった父ジェームズが54歳の時に生まれた。母違いの長兄ジェームズにはすでに息子があり、つまり父には孫より幼い息子であった。サラはフランクリンの幼少時のみならず、生涯、支配的な影響を与えた[注釈 6][要出典]。
この時代の富豪の子弟の例に漏れず、フランクリンは家庭教師の手によって教育を施された。同世代の子供と交流する機会はほとんどなかった。14歳の時、名門グロトン校に入学を果たしたものの、寄宿舎生活にはなじめなかった。1904年にハーバード大学、1908年にはコロンビア大学ロースクールを卒業。大学時代のフランクリンは学内紙の編集長を務める活躍ぶりを見せる一方で、セオドアも会員名簿に名を連ねていた名門クラブ『ポーセリアン』への入会に失敗している。
1908年にウォール・ストリート法律事務所での仕事を引き受ける前、1905年の聖パトリックの祝日にセオドア・ルーズベルトの姪(弟の子)であるアナ・エレノア・ルーズベルトと結婚した。この結婚式で、すでに亡くなっていた実父に代わり花嫁エレノアの腕を取ったのは大統領セオドア・ルーズベルトである。6人の子供(5男1女)[注釈 7]をもうけ、4番目に生まれた息子エリオットはのちに作家となった。
1911年10月11日、フリーメイソンに加入した[6][7]。
初期の政治経歴と海軍との関係
1910年の州議会議員選挙でダッチェス郡から州上院に出馬。同郡では1884年以来民主党からの議員を選出していなかった。選挙では地滑り的勝利で当選する。1911年1月1日に議員に就任し、民主党を支配していた「タマニー・マシーン」に対する「反対分子」グループのリーダーとなった。連邦上院議員選挙が1911年1月16日、民主党幹部会議と共に始まり、二つの派閥の争いのため74日間行き詰まることとなる。3月31日にジェームズ・A・オゴーマンが選出され、タマニー派の候補ウィリアム・F・シーハンを打ち破ることでルーズベルトは目的を達成し、ニューヨークの民主党においても名声が高まった[注釈 8]。
1913年、当時の大統領ウッドロウ・ウィルソンによって海軍次官に任命された。海軍長官のジョセファス・ダニエルズの下で同職を務め[注釈 9]、海軍の拡張に尽力し、海軍予備役部隊を設立した。中米およびカリブ海諸国への干渉のために海軍と海兵隊を派遣した。1920年の大統領選挙において、副大統領候補のルーズベルトは海軍次官として1915年にハイチに課した憲法を起草したと主張した[注釈 10]。
ルーズベルトは生涯を通じて海軍への愛情を育んだ。彼は海軍予算を承認させるため議会のリーダーとその他の政府の各省と交渉した。潜水艦の導入と、ドイツ潜水艦による連合国船団への脅威に対抗する戦力導入の熱心な支持者であった。そして、ノルウェーからスコットランドまでの北海に機雷を敷設し、機雷原を作り上げるよう提案した。1918年にはイギリスとフランスを訪問し、アメリカ海軍の施設を視察した。この訪問で彼は初めてウィンストン・チャーチルと面会した。1918年11月に第一次世界大戦が終了すると、ルーズベルトは復員業務を担当し、一方海軍の完全解体計画に反対した。1920年7月、ニューポート・セックススキャンダル(en)に関連した報道で海軍次官を辞職し[注釈 11]、副大統領候補として大統領選に出馬した。
1920年民主党全国大会でルーズベルトは副大統領候補に選出され、大統領候補、オハイオ州知事のジェームズ・コックスと共に選挙戦に突入した。しかし両候補は共和党のウォレン・ハーディングに大敗。ルーズベルトは政界から引退しニューヨークで弁護士業を始め、新たに結成されたニューヨーク・シビタンクラブに加わった[10]。
第二次世界大戦への参戦
1910年代から1930年代の戦間期のアメリカ海兵隊は、独立した戦闘能力を維持するために小規模な師団的な部隊を大隊単位で恒常的に設置するようになり、中米・カリブ海諸国に派遣されていたが(バナナ戦争)、1927年にニカラグアで始まったサンディーノ戦争で、アウグスト・セサル・サンディーノ将軍率いるゲリラ部隊に苦戦し、1933年に大統領に就任したルーズベルトは、ニカラグアと他の中米諸国から海兵隊を撤退させ、軍事占領を解く代わりに、キューバにはバティスタ政権、ニカラグアにはソモサ政権などのアメリカ合衆国の傀儡(かいらい)政権を樹立して間接的に支配する政策に転換し、ドミニカ共和国のトルヒーヨ政権のようにすでに樹立されていた傀儡政権に対する支配を継続した。ルーズベルトを支持する人はその政策を軍事占領を解いたことを論拠にして、傀儡政権による間接支配政策は論拠にせずに善隣政策と表現している。1933年12月、海軍長官命で艦隊海兵軍が創設された[25]。これは、海兵隊に長期遠征から敵海軍基地の奪取という任務の変化をもたらした[26][27]。
就任後から1937年の隔離演説発表まで、表面上は日本に協調的姿勢を見せて日本と中国間の紛争には一定の距離を置く外交政策を取っていた[28]。
1939年9月、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発。アメリカ政府は、イギリス寄りだが武器援助以外には基本的に介入しない政策を取っていた。これは、第一次世界大戦に参戦した経験からヨーロッパの戦争に関わるのは極力避けたい、と考えていたアメリカ国民の世論を意識してのことであった。
また、名目上でもそうしなければならなかった理由として、ルーズベルトは大統領就任前の選挙中から「戦争はしない」という公約を掲げており、対日開戦はその意味でアメリカ国民に対する公約違反だとする批判も存在する。
戦時下のヨーロッパでナチ党のアドルフ・ヒトラー率いるドイツ国防軍に、バトル・オブ・ブリテンにおいてイギリス本土上陸寸前まで追いつめられていたイギリスのウィンストン・チャーチル首相や、日華事変で日本と戦闘状態にあった中華民国の蔣介石総統の夫人でアメリカ留学経験もある宋美齢が、数度にわたり第二次世界大戦への参戦や日中戦争におけるアメリカの支援、参戦をルーズベルトに訴えかけていた[注釈 16]。
当時、アメリカ政府はイギリスや中華民国に対し多大な支援を行っており、特に多額の戦債をつぎ込んだイギリスが負けることは避けたかった。ルーズベルト自身も選挙では、戦争に介入しないと宣言して当選しており、参戦をしたくても出来ない状況にあった。ルーズベルトはモンロー主義に閉ざされていたアメリカ国民に対し、「欧州やアジアの戦争はアメリカに関係ないという人たちがいる。しかし、戦争を引き起こしている者にアメリカにつながる大海原の支配権を渡すわけにはいかない」とラジオで諭している。
隔離演説から参戦まで
隔離演説
1937年には、最高裁改革の失敗や労働争議の頻発、景気後退、さらにはまたルーズベルトと同じ民主党の保守派議員が、ニューディール阻止の為に共和党との超党派ブロックを結成するなどして、ルーズベルトは孤立し、議会に対する影響力を低下させており[29]、その様子はまるで「まったく棄てられた指導者」であったといわれる[30]。
1937年8月30日、中華民国は国際連盟に対して、盧溝橋事件などの日本の行動が不戦条約および九ヶ国条約に違反すると主張し、措置を取るよう提訴した。9月6日、ルーズベルトは「世界の政府間の平和のためにアメリカが先頭に立って 大掃除をする準備ができていることを公にする」と財務長官のヘンリー・モーゲンソーと国務長官のコーデル・ハルに語り[29]、1937年(昭和12年)10月5日、世界で行われつつあるとする侵略行為を非難するために「病人」になぞらえて隔離演説(隔離声明、防疫演説)(en:Quarantine Speech)をシカゴで行った[29]。
「世界の九割の人々の平和と自由、そして安全が、すべての国際的な秩序と法を破壊しようとしている残り一割の人々によって脅かされようとしている。(中略)不幸にも世界に無秩序という疫病が広がっているようである。身体を蝕む疫病が広がりだした場合、共同体は、疫病の流行から共同体の健康を守るために病人を隔離することを認めている」[31][29][注釈 17][要ページ番号]
演説は直接には特定の国家を名指しすることはなかったものの、一般には従来の棍棒外交をあらためて否定し、ドイツやイタリア、日本などの国政実行を非難するルーズベルトの政策理念を表明する演説と考えられている。演説のなかでは、「宣戦の布告も警告も、また正当な理由もなく婦女子をふくむ一般市民が、空中からの爆弾によって仮借なく殺戮されている戦慄すべき状態が現出している。このような好戦的傾向が漸次他国に蔓延するおそれがある。彼ら平和を愛好する国民の共同行動によって隔離されるべきである」とも語られた[33]。なおハルの証言では、アメリカ国務省が作成した演説原案には「隔離」の部分はなく、演説直前にルーズベルト自身が入れた[34][29][35]。
翌1938年10月6日には国務省声明を発表し、中華民国における日本の行為を、アメリカは九カ国条約とケロッグ-ブリアン条約(パリ不戦条約)違反とみなし、声明は国際連盟の決議に沿うものとして、日本を明確に名指した[36][29]。ただし、アメリカはその加盟国ではなかった。
隔離演説の反響
隔離演説はニューヨーク・タイムズやコロンビア大学学長のニコラス・バトラーから賞賛される一方、ウォールストリート・ジャーナルは「外国への手出しをやめろ、アメリカは平和を欲する」という記事を掲載し、シカゴ・ トリビューンは、ルーズベルトはシカゴを「戦争恐怖の世界的ハリケーンの中心」に変えたと報じ[37]、また国務長官であるハルもこの「隔離」や「伝染病」というレトリックは無用の反対をもたらしたとして批判した[29]。さらに『クリスチャン・センチュリー』誌(en)は「もしアメリカが中国のために参戦すれば、その結果はひとりソビエトの勝利に終わるであろう」と警告した。挑発的な内容を持つこの隔離演説はアメリカ国内で非難を受け、演説後、6つの平和主義団体が「ルーズベルトはアメリカ国民を世界大戦の道に連れて行こうとしている」との声明を出した。アメリカ労働総同盟は「アメリカの労働者はヨーロッパ、アジアの戦争に介入することを欲しない」との決議を行った。アメリカを参戦させないための請願に2500万人の署名を求める運動も始まった。
日本でこの隔離演説が報道されると、毎日新聞は「米大統領の諷刺演説に應酬―率直にわが眞意吐露‘戦争’も已むを得ず」「紛争國“隔離”を提唱―米大統領演説」[38]と題した記事で、朝日新聞は「米大統領獅子吼―平和確保に協力せん」[39]と題してこの演説が日本を指すものとして報道した[29]。また松方幸次郎は日本駐在の参事官ユージン・ドゥーマンに対して日本海軍はこれまで慎重論であったが、この隔離演説に対して強烈な反感を抱いていると伝えた[40][29]。
駐米ドイツ大使のハンス・ディックホフ(en)は、演説の直接的なきっかけは、中国での日本の行動にあり、また大統領を悩ませていた黒人(アフリカ系)問題から大衆の気をそらせる意図もあるとドイツ本国へ伝えた[41][29]。 なおニューヨークタイムズ記者のアーサー・クロックは「隔離声明以来、ルーズベルト大統領は、日本の敵意を煽り、枢軸側へ追いやるために、あらゆる手段を駆使した」としている[42]。日独伊を敵視する一方で、共産主義の下に恐怖政治を敷いていたスターリンと親交のあったルーズベルトは、ソ連によるフィンランド、ポーランド、およびバルト三国侵略については黙認していた。
また隔離演説は、アメリカ国民を戦争に順応させるレトリック的キャンペーンの始まりを告げるものであったともいわれる[43][29]。
ブリュッセル会議とパナイ号事件
中華民国の国連への提訴と、アメリカ大統領による隔離演説を経て、同年11月3日から24日にかけて、ブリュッセル会議(九ヶ国条約会議)が開催。日本側は出席を拒否した。アメリカは隔離演説で見せたような挑発的な言明は避け、会議で国務次官のウェルズは「日本を侵略者呼ばわりするのは我々の考えではない。日本を懲罰するのではなく単に意見を交換するだけだ」と述べ[44][29]、中国を失望させた。
12月12日には、日本海軍機が米国の警備船「パナイ号」を爆沈したパナイ号事件が起きるが、アメリカはこの事件をもって開戦とはしなかった。西川秀和はその理由を「日本政府が速やかに賠償に応じたことも一因であるが、アメリカ国民の一般感情が強硬策を求めるまでに沸騰しておらず、第一次世界大戦後の孤立主義的傾向を完全に払拭するまでに至らなかったことに大きな原因がある」としている[29]。ルーズベルトはパナイ号事件に激怒していたが、隔離演説で予想を上回る反発が世論に起きたため、挑発的な言辞を使用することも報復的な対策をとることもなかった[29]。
詳細は「パナイ号事件」を参照
対中支援工作
詳細は「中独合作」を参照
ルーズベルトは、1937年7月7日の盧溝橋事件勃発後の日中戦争(当時日本側呼称:支那事変、近衛文麿首相・第1次近衛内閣)にあたり、大量の軍事物資を援蔣ルートを通じて蔣介石率いる国民党政権に送り続けた。1939年7月には日本政府(平沼騏一郎首相、平沼内閣)に対し日本の中国侵略に抗議するとして日米通商航海条約の廃棄を通告した。通告6カ月後の米内内閣(米内光政首相)下の1940年(昭和15年)1月26日に同条約は失効し、日米関係は無条約時代に入った。また、クレア・リー・シェンノートが当時は国民党に雇用されていて、シェンノートの指揮のもとに組織されたアメリカの退役軍人を中心とする義勇軍「フライング・タイガース」を1941年に中華民国へ派遣させるなどした。なお蔣介石は、1928年からドイツ軍事顧問団による指導を受けていたが、1938年に軍事顧問団は引き上げている。また蔣介石の顧問に任命されていたオーウェン・ラティモアは日本軍の中国撤兵を要求する暫定協定に反対するよう蔣介石に助言してもいる。
レンドリース法
1940年7月10日、スティムソンが陸軍長官に復帰した。同時にやはり共和党員であるフランク・ノックスが海軍長官となる。これらの人事は、第2次大戦への参戦を意識したものであった。スティムソンは、9月には選抜徴兵制を導入して、140万人以上の兵員動員を可能とした。
1941年3月にはレンドリース法(武器貸与法)を成立させ、大量の戦闘機・武器や軍需物資を中華民国、イギリス、ソビエト連邦、フランスその他の連合国に対して供給した。終戦までに総額501億ドル(2007年の価値に換算してほぼ7000億ドル)の物資が供給され、そのうち314億ドルがイギリスへ、113億ドルがソビエト連邦へ、32億ドルがフランスへ、16億ドルが中国へ提供された。
詳細は「レンドリース法」を参照
日米交渉から開戦まで
1941年4月からは日中間の戦争調停と日米間の和平合意を目指す日米交渉が本格化した。しかし、日独伊三国同盟問題や満州国など日米の溝は大きく、交渉はまとまらなかった。当時日本の指導部(第2次近衛内閣)は日米の国力の差を考え対米戦争に対して消極的であった[45]。
しかし、1941年7月2日に策定された情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱によるフランス領インドシナやオランダ領東インドへの進駐計画はアメリカとの衝突をも予期したものであった。7月18日に第3次近衛内閣発足後、日本が平和目的であるとしながらも南部フランス領インドシナ進駐をほのめかすようになると、7月25日に在アメリカの日本資産凍結を行った。しかし7月28日に進駐が実行され、8月1日にアメリカは「日本を含む全侵略国」への石油禁輸を行った。第二次世界大戦における自陣営拡大の希望を持つドイツとイギリスは日米交渉打ち切りを外部から働きかけていた。ロナルド・リンゼイ(英語版)駐米英国大使は「ルーズベルト大統領は戦争を避けるため、経済封鎖に固執していた」と述べている[46]。
またこの間の1941年8月9日から12日にかけて、イギリスのチャーチル首相と大西洋会談を行い米英首脳共同の調印で、「大西洋憲章」を発表した。8月17日の野村・ルーズベルト会談において、豊田貞次郎外相は首脳会談による調整を提案したが、ルーズベルトは日本側の態度変更がない限り応じられないと回答した[47]。またハミルトン・フィッシュ3世(en:Hamilton Fish III)によれば、近衛首相はルーズベルト大統領との会談を希望したが、すでに対日戦を決意していたルーズベルトは会談の要請を拒絶したという[注釈 18]。また駐日米国大使のジョセフ・グルーも首脳会談の開催を強く要請したが、ルーズベルト政権は「会談の必要なし」として却下している。
以降10月18日に発足した東條内閣(東條英機首相)と水面下の対日交渉に臨むものの、11月27日に日本側が最後通告と受け取ったハル・ノートが手交された。日本側は12月1日の御前会議で対米開戦を正式決定したが、12月6日にルーズベルトは昭和天皇宛に「平和を志向し関係改善を目指す」親電を送った[48]。しかしこの日は日本側の交渉打ち切り文書である「対米覚書」が野村吉三郎大使に渡された日だった。
1941年12月7日(日本時間で12月8日)の日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争(開戦直後の閣議決定における日本側の呼称:大東亜戦争)が勃発し、翌日(12月8日)には、「Pearl Harbor Address to the Nation」(=真珠湾攻撃を国民に告げる)として、日本への宣戦布告を議会に求めた[注釈 19][49]。
アメリカ議会の上院は全会一致、下院は1人(ジャネット・ランキン)が反対したのみで、宣戦布告を承認した。その後、ルーズベルトがイギリス首相ウィンストン・チャーチルに「我々は同じ船に乗りました、日本は攻撃してきました」と報告した際、チャーチルは手を叩いて喜んだ[50]。その後議会で日本軍の「卑劣な騙し討ち」を非難し、その日のうちに宣戦布告の誓約に署名して日本との戦争に突入した。
対日・対中政策
中国が経済的・軍事的に弱体化して日本と単独講和をする可能性があったため、ルーズベルト政権は対中援助政策を積極的に行った[51]。蔣介石の国民革命軍が日本軍に敗北を繰り返し、多くのヨーロッパ諸国やアジア諸地域が枢軸国に占領され連合国戦線から脱落しているにも関わらず、ルーズベルトは中国を戦線からの脱落をさせないために軍事援助の借款や蔣介石のカイロ会談出席と台湾の返還、さらに沖縄の中国による領有を主張し(蔣介石は沖縄領有を断った)、中国の常任理事国入りを強く希望し、米英ソ中が世界平和の維持する「四人の警察官構想」を抱いていた。ルーズベルトは米英の支援を受けた中国軍が中国の日本軍を撃破して、米軍のB29機が中国から日本本土へと空襲、中国軍が朝鮮半島から日本本土に侵攻する対日戦略を想定したが、これは中国の戦力の実態を認識していないルーズベルトがテヘラン会談におけるソ連の役割をカイロ会談で中国に当てはめたようなものであまりにも無理な作戦であった。しかも、ヨーロッパ戦線がアメリカの主要な関心事だったので、中国戦線に十分な物資を割り当てることができず、1942年のビルマの戦いで日本軍によって援蔣ルートが遮断されると、1944年にそれが復活されるまでの間は物資輸送は空輸に頼らざるを得ず、深刻な物資不足に陥った。また、中国は列強のソ連とは軍事力も工業力も経済力も大きく隔絶していた。
アメリカが参戦して以降、ルーズベルトは外交政策について国務省をほとんど頼らず、ハリー・ホプキンスのような個人的特使や大統領付軍事顧問であるウィリアム・リーヒなどとだけ相談して物事を進めてしまったため、国務省はルーズベルトが描いている戦争の遂行、終結についての構想を全く知らされていなかった[52]。
カイロ会談で米英中は対日戦継続を宣言したが、ルーズベルトの期待に反して1944年の大陸打通作戦で国民革命軍は日本軍に大きな打撃を受け、軍事的考慮よりも政治的考慮を優先したルーズベルトの対中政策は統合参謀本部から強硬に批判され[53]、アメリカ側は対日戦略をアイランド・ホッピングに変更した。
ルーズベルトの対中姿勢は理想的であったが、チャーチルとスティルウェルの対中姿勢は現実的であった。チャーチルは、中国を対日軍事拠点とする事、蔣介石をカイロ会談に出席させる事、台湾を中国に返還する事に反対し、さらにスターリンに対してと同じく中国へも常任理事国入りするのを反対した。回顧録では「(カイロ会談の時)蔣介石は権力の絶頂に立っていた。アメリカ人の目には彼は世界第4位の国の指導者であり、新アジアのチャンピオンだった。私はこういったものは過剰であって、中国の戦闘能力にしても未来の地位にしても疑問に思っていた」[要出典]。
これ以外にも、歴史家や野党の共和党議員などからは、「ルーズベルトは日本軍の真珠湾攻撃についての情報を前もって入手しており、アメリカが第二次世界大戦に参戦する理由づけとしてそれを看過した」と主張がなされることがある。
詳細は「真珠湾攻撃陰謀説」を参照
また、アヘン戦争のころから中国とアヘンを含む貿易を手広く行って財を為した母方の祖父の影響で、ルーズベルト本人が幼いころから中国文化に深い愛着を持ち、中国人に対して同情的かつ友好的な考えを持つ親華派であることを明言していた[54]。レイシスト・「人種改良論者」
ルーズベルトの人種観、特に異人種間の結婚に対する考えは、現代的な視点から判断すれば基本的にはレイシズムに基づいていると言えるが、その上でもやや一貫性のないものである[55]。太平洋戦争会議(Pacific War Council)では、「人類は、均等な機会が与えられるのならば、うまく混ざるだろう。(戦後は[引用者註])我々が知っているような人種差別は軽減されて、世界の国々は人種のるつぼのようになるだろう」と語る一方で[55]、駐米イギリス公使ロナルド・キャンベル(Ronald Hugh Campbell)との私的な会話では、ルーズベルトは、スミソニアン博物館の研究者であるアレス・ハードリチカによる、日本人の頭蓋骨は「われわれのより約2000年、発達が遅れている」という見解を紹介した上で、「人種間の差異を重視し、人種交配によって文明が進歩する」などと語り、「インド系やユーラシア系とアジア人種、欧州人とアジア人種を交配させるべきだ。だが日本人は除外する」、「日本人が敗北した後は、他の人種との結婚をあらゆる手段を用いて奨励すべきである」などとキャンベルに語ったという[55][56]。
このような自らの人種差別的感情と、第二次世界大戦以前からのアメリカにおける日本人に対する人種差別的感情を背景に、1941年12月の対日開戦後には妻エレノアからの反対をも押しのけて、大戦中にアメリカ国内とアメリカの影響下にあったブラジルやメキシコ、ペルーなどの中南米諸国において、ヒトラーのユダヤ人強制収容と同様の日系人の強制収容政策を推し進め、自由を束縛するとともに財産を放棄せざるを得ない状況に追い込んだ。
さらに1944年6月13日には、アメリカの新聞が「ルーズベルト大統領が、フランシス・E・ウォルター連邦議会下院議員からレターオープナーを贈呈されたが、それが日本兵の腕の骨から作られたものである」と報じた。その後ルーズベルトは、レターオープナーの返還と適切な葬儀を命じている[注釈 20]。
「米軍兵による日本軍戦死者の遺体の切断」も参照
原子爆弾の開発政策(マンハッタン計画)
ルーズベルトは、1939年にレオ・シラードとアルベルト・アインシュタインのからの書簡を契機に、原子爆弾の開発計画であるマンハッタン計画を推進した。1941年にイギリスからユダヤ系科学者オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスの記した核エネルギーの兵器応用のアイディアを伝えられ、核兵器実現の可能性が高まると、1942年6月、ルーズベルトは国家プロジェクトとしての研究着手を決意する。プロジェクトの実施にあたっては「陸軍マンハッタン工兵管区」と名称が付けられた組織が行うこととなった。責任者はレズリー・リチャード・グローヴス准将が1942年9月に着任した。
連合国首脳との会談
ルーズベルトは、大戦中に数度にわたり他の連合国首脳と会談している。 1943年1月14日には、イギリスのチャーチル首相と会談するためフロリダ州マイアミからモロッコのカサブランカに出発した。彼は飛行機で外国を訪問した最初のアメリカ大統領になった。 会合は1月24日に終えたが、会談最終日にルーズベルトは第二次世界大戦の趨勢に重大な影響を及ぼすことになる「枢軸国との一切の和平交渉を拒絶し、無条件降伏を唯一の戦争終結とする。」という原則を表明した。
これは戦争の終結において条件付き講和という方法が遮断され無条件の降伏しかないならば、枢軸国は敗戦濃厚となっても休戦という決断は取らないで必然的に破れかぶれで戦争の継続を突き進む可能性が高いと考えられ(実際にドイツはそうなった)、弊害の方が大きいとしてチャーチルはじめ反対意見が少なくなかった。 またチャーチルはイタリアを枢軸国側から離脱するよう誘うためにも、枢軸国一律に無条件降伏を要求することは同意していなかった。 しかしこうした重大な政治的、軍事的要素をはらむ問題にもかかわらず、ルーズベルトは事前に国務省から意見を聞いたり、チャーチルから承諾を得たりすることも無しに、独断で連合国首脳の総意であるかのように記者会見でコメントした[注釈 21]。
これは当時、アメリカ世論がルーズベルト政権に対して「戦争の早期終結のため枢軸国勢力と安易に取引するのでは?」と不信感を抱いており、ルーズベルトはこの疑惑を払拭する何らかの意思表示をする必要性から無条件降伏の原則を発表した。 ルーズベルト政権に疑惑が生じた背景には、その前年の1942年に米英軍が実施した親ドイツ姿勢のヴィシー・フランスが支配する北アフリカへの上陸作戦(トーチ作戦)がある。自国内でナチス・ドイツが行うユダヤ人迫害政策に加担したヴィシー・フランス軍司令官フランソワ・ダルランと、ルーズベルト政府が秘密裏に休戦交渉していたことが露見、アメリカのマスコミに「ルーズベルトはファシズム勢力と妥協した」と激しく非難される経緯があった[52]。
同年11月にはエジプトで行われたカイロ会談において、中国の蔣介石総統とチャーチル首相とアジアにおける戦後処理について話し合った。その後チャーチル首相とともにイランのテヘランに移動してソ連のヨシフ・スターリン書記長と会談。
1944年10月14日、ルーズベルトは日本の降伏を早めるために駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンを介してスターリンに対日参戦を提案した[57]。同12月14日にスターリンは武器の提供と南樺太と千島列島の領有を要求[58]、ルーズベルトは千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄を促した。また、このときの武器提供合意はマイルポスト合意といい、翌45年に米国は、中立国だったソ連の船を使って日本海を抜け、ウラジオストクに80万トンの武器弾薬を陸揚げした[61]。
翌1945年2月4日から11日にかけて、ソビエト連邦クリミア半島のヤルタで、ルーズベルト、チャーチル、スターリンによるヤルタ会談が開かれ、大戦後の国際秩序や発足が議論されていた国際連合についての協議が行われた。また、日本の領土分割などについても話され、ヤルタ会談ではこれが秘密協定としてまとめられた[64]。
「ヤルタ会談#極東密約(ヤルタ協定)」も参照
この会期中2月9日に開かれた英米軍事会議においてルーズベルトは、チャーチルから「戦争が1年でも半年でも短縮されるならば意味がある。」としてドイツ、日本との戦争終結に際しての降伏条件をいくらか緩和するように提言された。それに対しルーズベルトは「そうした考えは、世界情勢に無知であり、今なお自国に有利な譲歩を得られると考える日本人に、そのような条件緩和を行うことが有効だとは思えない。」と一蹴し、あくまでも無条件降伏を要求し続けるとの姿勢を固持した[65]。そしてヤルタ会談においてルーズベルトは、ドイツ降伏後も当分の継続が予想された対日戦を、降伏条件を緩和することなしに早期に終結させるため、スターリンに対し千島列島、南樺太のソ連への割譲を条件にドイツ降伏後3ヶ月以内の対日参戦を要求した。 後にソ連が満州に侵攻する。
勝利を目前にしての死去
ルーズベルトは共和党候補トーマス・E・デューイに勝利し、1944年11月7日に先例のない4選を果たした。
4期目就任からわずか3ヶ月後の1945年4月12日、静養先のジョージア州ウォームスプリングスにある別荘で肖像画の制作途中、昼食前に脳卒中で死去した。63歳没。
死因は高血圧性脳出血であり、死亡日の血圧は300/190 mmHgであった。1年前から最高血圧は200 mmHgを超えていた。当時、高血圧の薬は実験的な報告が出たばかりであり、治療法はなかったという[66]。これに伴い、副大統領ハリー・S・トルーマンが大統領に昇格した。その後、5月にはドイツ、8月には日本が降伏。つまり、ルーズベルトの死は、第二次世界大戦の終結と連合国の勝利を目前にした死であった。ルーズベルト死去の公式発表は、当日に戦死した軍人とともに、戦闘犠牲者として銘記する形でなされた[67]。
その他
- 1911年にニューヨーク州のホーランド・ロッジNo.8でフリーメイソンに入会[68][69]。
- 1913年にエレノアの社交秘書を務めたルーシー・マーサー・ラザーフォード(英語版) と恋仲となり、一時はエレノアとの離縁も考えていた。後に別の男性と結婚するが未亡人となったルーシーは、大統領在任中のルーズベルトと再び秘密裏に交際するようになり、1945年の急死時も付き添っていて最期を看取った[3][70]。従姉妹のマーガレット・サックリー(英語版)とも親密な間柄であった[5]。
- 1921年8月10日にカナダ・カンポベロ島の別荘でポリオを発症する。その後遺症により下半身がほとんど麻痺し、日常生活では車椅子を常用していた。生前は車椅子姿を見られるのを非常に嫌ったため、訪問先の植木や立ち木をカムフラージュのために植え替えさせるなど、自身の障害を知られないよう事細かく指示した。また、マスコミもあえて積極的に報道しなかったため、ルーズベルトに障害のあったことは当時のアメリカ国民にはほとんど知られなかった。車椅子姿をとらえたメディアはほとんど無く、写真が2枚ほど残されているだけである。
- ルーズベルトが実際に罹患したのはギラン・バレー症候群であったと推測する症状比較研究がある[71]。それによれば、彼の症状の8項目のうち6項目についてはギラン・バレー症候群の症状との整合性が高く、2項目についてはポリオとの整合性が高かったという。しかし、ルーズベルトの脳脊髄液は採取されなかったので、正確なことは分かっていない。
- 2001年に米国の身障者協会の運動で、ワシントンに車いす姿のルーズベルトの銅像が立てられた[要出典][72]。
- 第二次世界大戦中の1942年、連邦政府職員とその家族のための保養所として1938年に開設されたハイ・キャトクティンを大統領専用の別荘兼避難所に選定し、イギリスの作家ジェームズ・ヒルトンの小説『失われた地平線』に登場するユートピアにちなんでシャングリラに改名した(後にキャンプ・デービッドに改称)[73]。
- 1944年9月23日、ワシントンD.C.で大統領選挙戦を開始したスピーチは「ファラ・スピーチ」と呼ばれる。アリューシャン列島にアメリカ海軍の駆逐艦を派遣して愛犬のスコティッシュ・テリアのファラを迎えに行かせたという批判に言及したため。
- 肖像は、米国の10セント銀貨に採用されている。
- 切手収集家としても有名であり、在任中に発行された多くの切手について、郵政当局に発行の要望を提案、実現させたのみならず、デザインの選定やシリーズの構成にまで関与した(歴代大統領肖像図案の普通切手、国立公園切手、枢軸国に占領された国の国旗切手など)。切手収集家のためのサービス向上にも熱心で、販売カタログに切手の一部しか載せないとした規制に柔軟に対応させるように法改正を進めた[要出典]ほか、切手発行初日に特別の消印を使用させるなど、様々な施策をとった。個人的な趣味が行政に影響を与えたが、関与した切手や導入させた施策は内外の切手収集家により、現在でも高く評価されている[要出典]。またモナコで戦後発行された追悼切手には切手を整理するルーズベルトの姿が描かれている。
- 推理小説の大ファンでもあり、シャーロック・ホームズ愛好家の団体ベーカー・ストリート・イレギュラーズの会員であった。また、彼自身が思いついたプロットでS・S・ヴァン=ダインらが『大統領のミステリ』と題するリレー長編を執筆した[要出典]こともある。
- ハーバート・フーヴァーは自著『裏切られた自由』において、1946年5月にダグラス・マッカーサーと会談し、「我が国は、この戦いの重要な目的を達成して日本との講和が可能である。(早い時期に講和していれば、その後の)被害はなかったし、原爆投下も不要だったし、ロシアが満州に侵入することもなかった」とマッカーサーに語り、「日本との戦争が、狂人が望んだものだというと、マッカーサーは同意した」と記述しており、マッカーサーもそれに同意して「ルーズベルトは1941年9月には近衛文麿との講和が可能だった」と述べたと、ルーズベルトについて手厳しく批判を重ねている[74]。
- 歴史学者・政治学者のチャールズ・ビアードは、「1941年11月25日、この最後通牒が日本に通達される前日、暫定協定に関する結論がまだ出ていなかったはずの時間に、ルーズベルト大統領とその戦時内閣は平和の展望ではなく、戦争について、戦争をどのようにして始まるかを巡って議論をしていたのだった」[75]と述べ、対日強硬策をとったハル・ノートを批判した[76]。
- 当時下院議員だったハミルトン・フィッシュは、戦後ハル・ノートの存在を知り、ルーズベルトを非難した[77]。
- 1938年の夏、ルーズベルト大統領とスミソニアン博物館が共同実施した調査航海[78]によって得られた標本を元に、ヨコエビのNeomegamphopus roosevelti (Shoemaker 1942) という種が記載された[79]。
- 野球好きで知られ、ニューヨークタイムズの記者に送った手紙に「一番面白い野球のスコアは8対7だ」と記した[80]。このエピソードから8対7の試合のことを「ルーズヴェルト・ゲーム」という。[81]
信じるか信じないかはあなた次第です〜