北原遥子さんをご存知でしょうか?
宝塚を退団後、タレントとして充実した時間を過ごしていたはずの北原さん、この方も日航123便に乗り命を落とされた方です。
ですがその遺体が不審なんです
事故時に事故現場とは離れたところで外傷もなく見つかる
航空機事故死
また、TBS系東芝日曜劇場1500回(1504回)記念テレビドラマ『星の旅人たち』の主演も作者(市川森一)の推薦で決定し、将来を嘱望されていたが、1985年8月12日、横浜市の実家にお盆で帰省した後、大阪府の友人に会いに日本航空123便に搭乗。飛行中に群馬県多野郡上野村の高天原山山中に墜落する事故に巻き込まれ、脳挫傷と内臓破裂により死去。24歳没[4][注釈 1][注釈 2]。同じ便には坂本九も乗り合わせていた。
墜落事故後
御巣鷹の尾根で発見された遺体は、事故現場の中でも奥に分け入った場所まで投げ出されたため、墜落後の機体火災に巻き込まれず、目立った外傷や損傷も無く、8月17日の午後、両親に確認された遺体は、身体がバラバラになっていない綺麗な遺体だった[4]。
北原の突然の死は、数多の宝塚関係者やファン、親友と互いに認め合う存在だった同期の黒木瞳を始め同期生、高校時代の同級生、北原が尊敬し慕っていた雪組時代のトップ娘役遥くららなどに衝撃と悲嘆をもたらした[5]。8月18日の午後に荼毘に付され、そのあとに通夜、翌19日に告別式が行われた[4]。戒名は『恵正院清蓮美遥大姉』である[6]。供花の中には当時急性骨髄性白血病で闘病中だった夏目雅子から贈られたものもあったが[4]、その夏目も奇しくも事故から1ヶ月近くが過ぎた9月11日、北原の後を追うかのようにこの世を去っている。
後年、墓所がある東京都港区の玉鳳寺に、北原を象った『聖観世音菩薩(美遥観音)』が建立された[6]。他、北原遥子の墓所は3つあり、群馬県多野郡上野村の御巣鷹の尾根・慰霊の園、大阪府池田市にある大広寺の「宝友之塔」に、北原遥子(吉田由美子)の名前が刻まれている[6]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/北原遥子
時速600キロで山に正面衝突したと言われているのになぜ?
外傷もなく、投げ出された割には綺麗という、意味不明な遺体の状態に不信感を抱いた方もおられるのではないでしょうか〜
このことから導き出されるもっとも合理的な考察は
私はこの方が、事故に巻き込まれたことにして、別口で殺されてここに運ばれたのではないかと推察してます〜
というのも事故発生後、救助開始まで14時間かかっており、この間に何者かが事故現場で何かをしていたという情報もありますー
13日午前1時、埼玉県の入間基地に帰投していたKV-107ヘリコプターが再び現場に到着した。火炎等の状況は2時間前と殆ど変わっておらずアプローチは困難との判断だったが、現場偵察を続け、アプローチが可能になれば即座に進入できる体制は整えていた[22]。しかし、実際には午前5時の夜明けを過ぎても待機場所である入間基地を飛び立たず、午前6時半にようやく入間基地を発進、現場上空から焼損した尾根付近を目視で生存者の捜索を行った。その後のちに生存者が発見された菅の沢付近へと近づきホイスト降下(ホイストで降下し救難者を吊り上げることが可能)しようとした直後、陸上自衛隊第一空挺団がリペリング降下(戦闘員がロープだけで降下する降下方法で吊り上げはできない)するので退去せよとの命令が無線で入り、現場を急遽離脱した。そのため、航空自衛隊救難隊のKV-107は後方支援にまわった[25]。
このときの様子をのちの救難隊救難員の回顧録で以下のように語っている。
上空からの捜索では生存者の発見は困難と判断し救難員2名がホイスト降下することになった。救難員は、山岳進出の準備を完了し機長に対して「救難員降下準備よし!」と報告すると「了解」の応答に間髪入れず、「スタンバイ」「スタンバイ」「待て」と少し上ずったボイスに引き続いて「ブレーク(現場離脱)」「無線モニター」との連絡が入った。何かの緊急事態が発生したのではないかと耳を研ぎ澄ませて聞くと「間もなく、第1空挺団のレンジャー部隊がリペリング降下を実施する。現場にいる航空機は直ちに退去せよ。」とのことであった[25]。
墜落後初めてのヘリコプターからの降下は午前8時30分の長野県警機動隊、2番目の降下が午前9時の陸上自衛隊第一空挺団からとなり、生存者の引き上げも陸上自衛隊のヘリで行っている。
実際の墜落位置:北緯35度59分54秒、東経138度41分49秒(事故調資料)
時刻 発見者・発表者 報告、活動 計測位置 墜落地点からの誤差 18時56分ごろ 東京救難調整本部
(運輸省航空局)レーダー消失地点
18時59分、自衛隊、警察、消防へ通報羽田方位308度59マイル
北緯36度02分、東経138度41分[報告書 11]北3.7km 18時56分ごろ 航空自衛隊 レーダー(千葉県南房総市愛宕山)消失地点 横田TACAN
方位302度36マイル東9.4km 19時15分 アメリカ空軍
C-130輸送機火災発見 横田TACAN
方位305度34マイル[報告書 11]北東3km 19時21分 航空自衛隊
F-4戦闘機炎を確認 横田TACAN
方位300度32マイル[解説 1]南東6km 20時42分 航空自衛隊救難隊
KV-107ヘリコプター横田TACAN
方位299度35.5マイル[解説 1]南西4km 21時10分 朝日新聞社ヘリコプター
「ちよどり」報道取材で現場上空に到着、炎を確認 羽田方位304度60マイル[26] 23時35分 報道取材、自衛隊が運輸省に通報した御座山付近には墜落の形跡がないことを確認[27] 羽田方位304度60マイル[28] 01時00分 航空自衛隊救難隊
KV-107ヘリコプター地上の捜索隊(警察)を誘導しようとしたが失敗 入間TACAN
方位291度36.3マイル[解説 1]南南西2km 04時39分 上空から墜落現場確認[報告書 11] 三国山西約3km
扇平山北約1km[解説 1]南西3km 05時00分 陸上自衛隊
HU-1Bヘリコプター日の出とともに上空から墜落現場確認 三国山北西約2km[解説 1] 南南東1km以下 05時33分 航空自衛隊
KV-107ヘリコプター上空から墜落現場確認 三国峠方位340度3km[解説 1] 北北東1km 05時37分 長野県警察ヘリコプター 上空から墜落現場確認[報告書 11] 08時30分 墜落現場に機動隊員2名ラペリング降下 09時00分 陸上自衛隊
ヘリコプター墜落現場に空挺団員降下:陸路で捜索隊到着 陸上からの救難活動の遅れ
地上からは、群馬、長野、埼玉の各県警が墜落現場の捜索にあたった。上空から米軍や航空自衛隊が山中の炎を確認していたが、墜落現場一帯は江戸時代は鷹狩のため一般の入山が禁じられていたとされる場所で、1963年(昭和38年)営林署が唐松の植林を行った以外は人の立ち入りの無い原生林であった。それに加え、レーダーやTACANの測位位置の誤差、事故当日は月齢25.1の闇夜であり、地上捜索による墜落現場の特定も困難を極めた[29][30]。
20時21分、長野県臼田警察署(現・佐久警察署南佐久庁舎)のパトカーが「埼玉県と群馬県境あたりに黒煙が見える」と通報[31]。21時39分、埼玉・長野両県警のパトカーが三国峠の西北西に赤い煙を発見し[32]、長野県警は12日深夜、墜落現場は群馬県側の山中であると発表した[注釈 23]。
しかし、氏名不詳の110番通報「長野県北相木村のぶどう峠付近に墜落した」や、日本航空広報が12日22時に発表した「長野県南佐久郡御座山北斜面(墜落現場から北西10 km)」、運輸省はレーダー消失地点の「北緯36度02分、東経138度41分(墜落現場から北3.7 km)」など情報が錯綜し、複数の位置情報で地上の捜索は混乱した[33]。
その結果、消防・警察や災害派遣要請によって出動した航空自衛隊の地上捜索隊、陸上自衛隊の各捜索隊など、地上からの捜索に時間がかかり、21時30分の群馬・長野の陸上自衛隊への派遣要請から11時間30分後の翌朝9時まで現場に到達することはできなかった。
解説書では、TACANの測位は乗務員の土地勘などでも精度が変わると指摘し、12日夜から13日朝までの各航空機の測位結果を表と地図で示した[解説 2]。
海上では、事故当初ドアが壊れたとの情報があり、乗客が機外に吸い出された可能性も考えられたことから、東京救難調整本部の通報を受けた海上保安庁の巡視艇3隻が、駿河湾周辺の捜索を行った[報告書 11][34]。
翌朝ヘリコプターからの救難活動開始
13日午前4時30分航空自衛隊救難隊 KV-107による墜落現場の再確認、5時10分陸上自衛隊ヘリUH-1Bによる墜落現場の確認、5時37分長野県警ヘリによる確認が墜落現場の上空からそれぞれ行われた。
午前6時30分、航空自衛隊救難隊は入間基地を離陸し遭難現場上空に到着。焼損した尾根付近の現場を捜索した後、のちに生存者が発見されるスゲノ沢に移動しホイスト降下をはじめようとした矢先退去が命じられ、救難隊は現場を離れることになった[23]。
午前8時30分、墜落後初めて長野県警機動隊員2名がヘリコプターから現場付近にラペリング降下。
午前9時に陸上自衛隊第13普通科連隊が陸路で現地に到着するとともに、陸上自衛隊第一空挺団員(指揮官岡部俊哉は後に幕僚長となる)が現場に降下して救難活動を開始。
群馬県上野村長(当時)の黒沢丈夫(元・大日本帝国海軍少佐)は、テレビ報道の映像を見て、現場が村内の「スゲノ沢」であると判断し、土地鑑のある消防団員に捜索隊の道案内をするよう要請した[35]。現場までは熊笹の生い茂る、傾斜角30度の急斜面で、約2kmの道のりに1時間30分もかかる難路だった。上野村消防団、群馬県警機動隊、警視庁機動隊、多野藤岡広域市町村圏振興整備組合藤岡消防署の救助隊が陸路で現場に到着、ようやく本格的な救難活動が開始された[36]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本航空123便墜落事故#捜索・救難活動
北原さんは29Dに座っていました
ジャンボ機のど真ん中くらいになりますーますますー
同じくらいのところに乗っていた人たちが2度焼きされたのではないかというほど遺体の損傷が激しかった、実際航空機の燃料は灯油みたいなものなんでそんなに高温で燃えません、炭化するほど燃える?意味不明ですー
火葬場状態になるようなことはないはず、どちらかというと焼きすぎた北京ダック状態になるのがセオリーかとー
原爆ですら爆心地以外のエンジン付近に座っていたのになぜこの人だけ綺麗な遺体なのか?
投げ出されたのではないか?どうやって?
意味不明すぎるんですよね
この状況下では考えられない、おかしいですーおかしいですー
投げ出されたとしても時速600キロで山体に突っ込んだ勢いで遠くまで投げ出されて綺麗な遺体とかありえないですー
そこから考えられるのは”あらかじめ殺しておいて、後から誰かが遺体をそれらしいところまで持ってきた”
というのが一番簡単な推理ですー。それをやるには日航の協力が必要不可欠になります。名簿の書き換えとか色々ーということは日航123便の事故は計画的に行われた可能性が高いということになりますー
逆にいうとこの北原遥子さんの綺麗すぎる遺体の理由を説明できない限りこの事故を事故と断定できないということですー
56分23秒:23秒の直前にはGPWSの「Whoop Whoop」という警報音と「PULL UP(上昇せよ)」という警告音声が交互に繰り返し流れる中で、機長の「もうダメだ」とも聞き取れる叫び声が記録されていた(報告書では機長の発言は「判読不能」とされていた)。右主翼と機体後部が尾根の樹木[注釈 18]と接触し、衝撃で第4エンジンが脱落した。このとき、機首を上げるためエンジン出力を上げたことと、急降下したことで、速度は340ノット (630 km/h) 以上に達していた[報告書 10][付録 1]。接触後、水切りのように一旦上昇したものの、機体は大きく機首を下げ右に傾き始め、その角度は70度にも達した。
56分26秒:機体は傾いたまま右主翼の先端が稜線[注釈 19]に激突し、衝撃で右主翼の先端とわずかに残る垂直尾翼と水平尾翼、第1・第2・第3エンジンが脱落。この時の衝撃と反動で、右主翼が稜線に引っかかる形で機体は前のめりに反転した。
56分28秒: 稜線に激突した衝撃で電源が落ち、フライトレコーダーとボイスレコーダーの記録はここで途絶える。
56分30秒:動力と尾翼を失った機体は高天原山の群馬県側北東の斜面にある尾根にほぼ裏返しの状態で衝突、墜落した。墜落時の衝撃[注釈 20]によって、機体前部から主翼付近の構造体は原形をとどめないほど破壊され、離断した両主翼とともに炎上した。機体客室後部が分離し、山の稜線を超えて斜面を滑落していった。客室後部は尾根への激突を免れて、斜面に平行に近い角度で着地し、樹木をなぎ倒しながら尾根の斜面を滑落して時間をかけて減速した。このため最大の衝撃が小さく、それ以外の部位と比較して軽度の損傷にとどまり火災も発生しなかった。これらの要因によって、客室後部の座席に座っていた乗客4名は奇跡的に生還できた。
57分:横田管制は123便に「貴機は横田の北西35マイル (56 km) 地点におり、横田基地に最優先で着陸できる」と呼びかけ、東京ACCも123便に横田基地に周波数を変更するよう求めたが、既に123便は墜落していた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本航空123便墜落事故
闇が深いのがこの123便ってところですー
123って悪魔崇拝者が大事にする数字だそうですー
この点で統一教会や創価、アメリカ政府の関与を疑う人も少なくないですー
どうでもいいけど67期の集合写真で北原遥子さんの隣の黒木瞳さんの隣で悪魔崇拝イルミナポーズ決めてる人誰ですかー?