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ベルリンのテレビ塔が”聖ヴァルター教会”と呼ばれる理由/フリューゲルについて考察

目次

東ドイツのテレビ塔の概要

テレビ塔は、旧ドイツ民主共和国(東ドイツ)によって、東ベルリンだった地区に1965年から1969年にかけて建設され、東ベルリンのシンボルとなってきた。テレビ塔は現在はドイツテレコムの所有となっており、ベルリン中心部のどこからでも見ることができるベルリンの有名なランドマークである。

建設された当時の高さは365 mだったが、1990年代に新しいアンテナが設置されたため、現在の高さは368 mとなっている[1]。ベルリンテレビ塔は、ヨーロッパ有数の高さの塔であり、モスクワオスタンキノ・タワーキエフキエフテレビ塔リガリガラジオ&テレビタワーに次ぐ高層構造物となっている。テレビ塔からの眺めはベルリンでも最高で、今でも年に100万人の観光客が訪れている。塔の中ほどにある球体の真ん中には、展望台回転レストランがあり観光客の人気スポットである。展望台は高さ204mの位置にあり、晴れた日には40km以上先までが見える。20分で360度回転するレストランは展望台の数メートル上に位置している(当初は1時間で一回転していたが、後に回転速度が2倍になり、1990年代後半の改修の際に3倍になった)。

塔のシャフト内は2本のエレベーターが、地表から球体まで40秒で観客を運んでいる。ただしエレベーターのかごのサイズが小さく、車椅子が入れないほか、エレベーター待ちの観客がテレビ塔入り口でいつも行列をなしている。

歴史

タワー基盤部のパビリオン

1964年、東ドイツの支配政党ドイツ社会主義統一党の書記長だったヴァルター・ウルブリヒトは、戦前のベルリンの交通中心地・繁華街で、東ベルリン時代にはシュプレー川まで続く広大な広場となっていたアレクサンダープラッツに、ランドマークとなるテレビ塔を建てる案を許可した。この塔は西ドイツシュトゥットガルト1950年代に建設開始された世界初のコンクリート製テレビ塔・シュトゥットガルトテレビ塔ドイツ語版)(Fernsehturm Stuttgart)と同様の構造で、シュトゥットガルトの塔より高く、東ドイツの工業力を示すものだった。

ベルリンテレビ塔建設のアイデアは1950年代半ばに遡る。当時、東西ドイツ政府は統一後の首都ベルリンの都市計画をめぐり、建築設計競技を別々に開催するなどして激しく対立していた。西ドイツ政府・ベルリン州(西)政府主催の都市構想コンペ「首都ベルリン」には、ル・コルビュジエや優勝者スミッソン夫妻(ピーター&アリソン・スミッソン)ら西側の名だたる建築家が参加したが、東ドイツ政府はこれをボイコットして1958年に「ドイツ民主共和国首都ベルリンの社会主義的都心改造」と題した独自のコンペを行った。これによりシュプレー川からアレクサンダープラッツ間の大集会用広場、マルクス・エンゲルス広場の周辺計画が決定していった。

この時、バウハウスの影響を受け戦前から活躍した建築家で、1950年代末には社会主義リアリズムからモダニズム建築に回帰しつつあったヘルマン・ヘンゼルマン(Hermann Henselmann)が、 イェルグ・シュトライトパート(Jörg Streitparth)とともに球体の展望室のあるテレビ塔を提案したが、審査では批判されたため実現しなかった。この案が1960年代半ばになって、東ドイツの通信網整備の拠点として、また東ベルリンのシンボルタワーとして、さらに間近に迫った東ドイツ建国20周年を祝う記念碑として、復活することになる。

テレビ塔建設に当たって、ヘンゼルマンとシュトライトパートに加え、ヴァルター・ヘルツォーク(Walter Herzog)、ヘルベルト・アウスト(Herbert Aust)も設計に加わった。建設は1965年8月4日に開始された。円錐形の高さ250mの鉄筋コンクリートの塔を建て、さらにアンテナ塔を継ぎ足す工事は、4年の歳月をかけてほぼ完成し、1969年10月3日には試験放送が行われた。公式なオープンはその4日後の1969年10月7日、ドイツ民主共和国の誕生から20周年を迎える建国記念日のことだった。

テレビ塔は「アスパラガスの茎」に喩えられ、西ベルリンからテレビ塔を見上げていたジャーナリストたちはこの塔を「Telespargel」(テレ・アスパラガス)と呼んでいた。

アネクドート

このテレビ塔は西側から見るといまいましいものだったためか、口さがないベルリンっ子たちの様々な小咄の対象となっている。たとえば、テレビ塔の球形部に張られたステンレス鋼のタイルに太陽が反射すると、光の反射は十字の形になった。この効果は設計者の意図したものではもちろんなく、設計時にこうなると分かっていたわけでもおそらくない。しかし共産主義政府の無神論をからかうため、また東ドイツで進行中の教会への抑圧に抗するため、ベルリンっ子はこの光の十字を Rache des Papstes 、「法王の復讐」と呼んだ。アメリカ大統領ロナルド・レーガン1987年に訪独した際、ベルリンのブランデンブルク門で演説した際にこの逸話にも言及し、この光を愛や崇拝のシンボルと呼びベルリンが社会主義によっても決して抑圧されない証だと述べている。

また同じ理由から、テレビ塔はヴァルター・ウルブリヒトにちなんで「聖ヴァルター教会」と呼ばれた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ベルリンテレビ塔

社会主義国・共産主義国は基本無神論

共産主義マルクス主義、特にソビエト連邦一党独裁体制について「全体主義」とする見解がある。

哲学者のカール・ポパーは『開かれた社会とその敵』で、マルクス主義は全体主義の一種であると批判した。哲学者のハンナ・アーレント1951年の著書「全体主義の起源」で、ファシズム国家社会主義を「全体主義」としたが、いずれも共産主義に影響を受けているものだと記した。

フランクフルト学派出身のフランツ・ボルケナウは著書「全体主義という敵」で、ファシズムと共産主義の実質的な同一性を記し、ロシアは「赤いファシズム」、ナチス・ドイツは「褐色ボルシェヴィズム」と呼んだ[7]フリードリヒ・ハイエクは、右翼も左翼も一見正反対に見える政治思想も実は同じ全体主義であると述べた。

欧州評議会議員会議は、2006年1月25日の1481号決議において「20世紀に席巻し、現在でも依然としていくつかの国で権力を握っている全体主義的な共産主義政権(The totalitarian communist regimes)は、例外なく、大規模な人権侵害を行なってきた。そこには、強制収容所・人為的な飢饉・拷問・奴隷労働およびその他の組織的暴力などによる個人および集団の殺害に加え、民族的または宗教的迫害・良心や思想を表明する言論の自由表現の自由への侵害・報道の自由の侵害・政治的多元主義の欠如などが含まれる。」「全体主義的共産主義体制における犯罪は、階級闘争理論とプロレタリア独裁の原則の名の下に正当化されてきた。共産主義の敵として排除された膨大な数の犠牲者は自国民であった。」「これらの犯罪は、ナチズムの犯罪のように、国際社会によっていまだ裁かれていない。その結果、共産主義政権の犯罪に対する諸国民の認識は非常に乏しく、一部の国では、共産党は合法政党であり、活動的な場合もある。」 「欧州評議会は、共産主義体制の犯罪を強く非難するとともに、共産主義体制の犠牲者の苦しみに同情し、理解することは倫理的な責務であると考える。」と決議した[8]

https://ja.wikipedia.org/wiki/全体主義

当時の東ドイツは宗教の自由は保障されていたそうですねー

でも東ドイツ政府は特定の宗教を進行しているものにはキャリアコースを歩めないようにしていたため国民の92%は無宗教だったそうですね。キリスト教徒だけど罰にそんな信じてないみたいな人ばかりだったとか

そこについては日本人にも共通する部分があるのかも

とりあえず演出から「あっちはテレビ塔、こっちはベルギー」の件がなくなったらしいので、多分あんまり触れてほしくない情報だったのかもしれません、これはやはり殉職された作品の可能性が高いですねー

やはりあの壁を壊すシーンはフリューゲルを使う予定だったのかもしれませんねー

歓喜の歌についてはまた別に考察しますーではー

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