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日本航空123便墜落事故についての考察#1

目次

事故の概要

日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年昭和60年)8月12日月曜日)、日本航空123便(ボーイング747SR-100型機)が群馬県多野郡上野村の山中ヘ墜落した航空事故である。

概要

123便は東京国際空港(羽田空港)発大阪国際空港(伊丹空港)行きの定期旅客便で、伊豆半島南部の東岸上空に差し掛かる頃、機体後部の圧力隔壁が破損、垂直尾翼補助動力装置が脱落し、油圧操縦システムを全喪失、操縦不能に陥り迷走飛行の末、18時56分28秒ごろ群馬県多野郡上野村高天原山の尾根(標高1,565メートル、通称御巣鷹の尾根)に墜落した[報告書 1]

乗客乗員524人のうち死亡者数は520人、生存者は4人で単独機の航空事故の死亡者数として過去最多である[1](2機が衝突した事故では、1977年3月に発生し、合計583人が死亡したテネリフェ空港ジャンボ機衝突事故がある)。

夕方のラッシュ時お盆帰省ラッシュが重なったことなどにより、著名人を含む多くの犠牲者を出し、社会全体に大きな衝撃を与えた。特にこの事故を指して『日航機墜落事故[2][3]』『日航ジャンボ機墜落事故[4][5]』と呼ばれることもある。

1987年(昭和62年)6月19日運輸省航空事故調査委員会(以下、事故調)は事故調査報告書を公表した。1978年(昭和53年)6月2日に伊丹空港で起こした「しりもち事故」後の、ボーイングによる圧力隔壁の不適切修理による破損が事故原因と推定されている[報告書 2]

事故原因を巡っては様々な疑問点や異説が提起されていたため、事故調の後身にあたる運輸安全委員会(JTSB)は報告書公表から24年後の2011年平成23年)7月29日、事故調査報告書の解説書を公表した[6]

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本航空123便墜落事故

事故時のコクピットの音声

コクピットのクルーは最後の最後まで乗客を救おうとしていたことがわかります。

搭乗員及び事故機の概要

事故機に関する情報

123便に使用されたボーイング747SR-46機体記号:JA8119、製造番号:20783)は、1974年(昭和49年)1月30日に製造され、1985年(昭和60年)8月19日付登録抹消された。総飛行時間は25,030時間18分で、総飛行回数は18,835回であった[報告書 3][7]

しりもち事故

詳細は「日本航空115便しりもち事故」を参照

1978年(昭和53年)6月2日(金曜日)、大阪伊丹空港着陸の際に機体尾部を滑走路面に接触させた事故である。修理後から本事故までの飛行時間は16,195時間59分で、飛行回数は12,319回であった[報告書 3]

事故前の不具合

事故直前の1985年(昭和60年)2月から本事故までの間、JA8119は客室後部の化粧室ドアの不具合が28件発生し、うち20件はグアム便(伊丹 – グアム線)で発生している。原因は、客室後部のコートルームに客室サービス用品を置いていたためで、コートルーム棚下への搭載禁止徹底により不具合は解消した[注釈 2]。しかし事故調は、前述のしりもち事故によって生じた機体の歪みによって不具合が発生した可能性は否定できないとしている。また、123便の前の便に乗っていた者の証言によると(366便福岡→羽田の便)床下から「ギシギシ」・「ガタガタ」のような音がしたという証言が入っている[報告書 4][別添 1]

運航乗務員

  • 機長(CAP):高濱雅己(たかはま まさみ、49歳 宮崎県出身)・運航部門指導教官
  • 副操縦士(COP):佐々木祐(ささき ゆたか、39歳 熊本県出身)・B747における機長昇格訓練生
    • JAL入社年月日:1970年(昭和45年)4月18日
    • 総飛行時間:3,963時間34分(うちB747、2,665時間30分)
    • B747以外の保有運行資格:DC-8(機長としても乗務していた)
    • 当日の動き:別の機に乗務してからJA8119に乗り換え、訓練のため機長席に座り、操縦とクルーへの指示を担当[報告書 5]
  • 航空機関士(F/E):福田博(ふくだ ひろし、46歳 山梨県出身)・エンジニア部門教官
    • JAL入社年月日:1957年(昭和32年)4月1日
    • 総飛行時間:9,831時間3分(うちB747、3,846時間31分)
    • B747以外の保有運行資格:DC-6、B727、DC-8
    • 当日の動き:羽田-福岡線363、366便からJA8119に乗務[報告書 5]

通常操縦席は機長が進行方向左席、副操縦士は右席に着席するが、当日は副操縦士の機長昇格訓練を実施していたことから着席位置が逆であった[報告書 1]

運行乗務員3名には、事故後に国際定期航空操縦士協会連合会(IFALPA)からポラリス賞が授与された。

客室乗務員

チーフパーサー(波多野純 PRU)は39歳で、1969年(昭和44年)10月18日に入社。総飛行時間は10,225時間33分であった。他に11人の女性客室乗務員が乗務していた[報告書 5]

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本航空123便墜落事故

この客室乗務員のグループに所属していた青山透子さんはその後この事故に疑問を感じ、亡くなった同僚のためにこの事故について独自で調査を続けています。

青山 透子(あおやま とうこ)は、日本航空123便墜落事故を追及するノンフィクション作家。元日本航空 客室乗務員。航空史上世界最多の死者を出した1985年の日本航空123便墜落事故について、事故調査委員会の調査結果に疑問を抱き、自ら各方面へ調査を行いその結果を出版している[1]

来歴

1985年日本航空の国際線客室乗務員になる。国内線乗務の時、単一機で航空史上世界最多の死者を出した1985年の日本航空123便墜落事故の客室乗務員と同じグループに所属していた。退職後、日本航空サービス関連子会社設立時に教務を担当し、各種企業、官公庁、専門学校、大学等の接遇教育や人材育成プログラム開発及び講師となる。

その後、日本航空123便墜落事故の事故調査委員会の調査に疑問を持ち、東京大学大学院新領域創成科学研究科博士課程を修了、博士号取得。大学院等研究機関で、日航123便墜落に関連した35年間の資料、日本国および米国公文書を精査して調査を重ね、その結果を多くの著書で公表している。

特に『日航123便墜落の新事実―目撃証言から真相に迫る』は10万部のベストセラーとなり、本屋大賞 ノンフィクション部門の最終選考に残った。『日航123便墜落遺物は真相を語る』『日航123便墜落の波紋』と共に全国学校図書館協議会選定図書にも選ばれた。

2019年7月16日、早稲田大学で開かれた「情報公開と知る権利–今こそ日航123便の公文書を問う」というシンポジウムに登壇。弁護士の三宅弘獨協大学教授の森永卓郎とともに講演している[2]

現在、弁護士、研究者、有識者らと共に立ち上げた「日航123便墜落の真相を明らかにする会」(会長は遺族の吉備素子)の事務局も担当している[1][3]

日本航空123便墜落事故については「日航123便墜落の真相を明らかにする会」の会長と123便の副操縦士の遺族が、2021年3月26日にボイスレコーダーフライトレコーダーの生データの開示を求め東京地裁へ提訴したが、2022年10月13日東京地裁は請求を棄却した[4]。この訴訟に関連した報告会と講演会が、2023年2月18日オンラインなどで開かれ、弁護団の三宅弘弁護士が経過報告し青山が講演した[5]。訴訟の経過は「日航123便墜落の真相を明らかにする会」のホームページで公表されている[6]

https://ja.wikipedia.org/wiki/青山透子

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事故時のタイムライン

事故の経過

事故調査委員会の報告書を基にした123便の飛行経過。記載されているのは上から順に各地点での時刻、飛行高度(フィート)、対気速度(ノット)。

Wikimedia | © OpenStreetMap

墜落地点(地図)

飛行計画

JAL123便として羽田空港を18時00分に出発、離陸後は南西に進んだのち伊豆大島から西に巡航、和歌山県東牟婁郡串本町上空で北西に旋回、伊丹空港には18時56分に到着する予定であった[報告書 1]

使用された JA8119の当日の運航予定は、

  • 503、504便で羽田 – 千歳線1往復
  • 363、366便で羽田 – 福岡線1往復
  • 123、130便で羽田 – 伊丹線1往復

12日朝から5回目のフライト。伊丹到着後に折り返し130便として伊丹発羽田行の最終便を運航する予定であったため、燃料は3時間15分程度の飛行が可能な量を搭載していた[報告書 1]

搭乗にはボーディング・ブリッジを使用せず、地上からタラップで搭乗した。

18時04分、乗客乗員524人を乗せたJA8119はJAL123便として定刻より4分遅れで羽田空港18番スポットを離れ、18時12分に滑走路15L(旧C滑走路)から離陸した[報告書 1]

緊急事態発生後の客室内の様子

CVRや生存者の非番女性客室乗務員の証言によれば、客室内は次のような状況だった[別添 2][10]

客室では衝撃音が響いた直後、各座席に酸素マスクが下り、プリレコーデッド・アナウンス[注釈 3]が流れた[別添 2]。乗客は客室乗務員の指示に従って酸素マスクとシートベルトの着用と、タバコを消す非常時の対応を行った[注釈 4]

生存者によれば、「『パーン』という音と同時に白い霧のようなものが出たが、酸素マスクを着けて前を見たときには霧は既に無かった。数秒で消えた。爆発音発生直後の機内の乗客はパニックした様子は無く、まだ何とかなるんじゃないか、という雰囲気だった」という[10]

酸素が切れた頃から、機体の揺れが大きくなり、客室乗務員も立っていられないほどになった[10]。18時47分以降は、緊急着陸(着水)に備え救命胴衣着用が指示された[報告書 6][注釈 5]。その後、乗客は不時着時の衝撃に備え、前席に両手を重ね合わせて頭部を抱え込むようにし、全身を緊張させる姿勢(不時着時の姿勢)をとった[10]

客室乗務員は乗客に対し機内アナウンスで、「幼児連れの親に子供の抱き方の指示」「身の回りの確認」「予告無しで着陸する場合もある」「地上と交信できている」等と案内していた[別添 2]。事故現場からは殉職した客室乗務員が書いた「不時着後の乗客への指示を列挙したメモ」も見つかった[11]

乗客の中には最期を覚悟し、不安定な機体の中で懸命に家族への遺書を書き残した者が複数いた[12][13]。これらの遺書の一部は事故現場から発見された。

また、事故現場からはコンパクトカメラも見つかり、事故発生時の機内の様子を撮影していたことがわかった。現像された写真は警察が刑事事件の証拠資料として保存していたが、公訴時効成立後遺族に返還され、遺族が公開した[14][15][16]

2014年(平成26年)8月12日にフジテレビジョンで放送された特番で紹介された生存女性(夫、長男、長女、次女と搭乗し本人と長女が生還)の手記によると、乗客の幾人かは失神した状態だったという。

操縦室音声記録装置 (CVR) による概要

事故後回収された操縦室音声記録装置 (CVR) には、18時24分12秒から18時56分28秒までの32分16秒間の音声が残されていた[報告書 1][別添 2][注釈 6]。下記はその内マスコミへ流出したカセットテープに記録されたもので、123便と東京航空交通管制部、東京進入管制所、横田基地などとの交信の概要。

カセットテープの最初の音声は、操縦席と客室乗務員とのやり取り。

18時24分35秒頃:伊豆半島南部の東岸上空(静岡県賀茂郡河津町付近)を巡航高度24,000フィート (7,300 m) へ向け上昇中、23,900フィートを通過したところで衝撃音[注釈 7]が発生し[注釈 8]、客室高度警報音が1秒間に3回鳴動した[注釈 9]。続いて機長が「まずい、なんか爆発したぞ」と発言。直後にオートパイロットが解除され機体(エンジン、ランディング・ギア等の表示)の点検が行われ、4つのエンジン、ランディング・ギア等に異常がなかったが、航空機関士が「ハイドロプレッシャー(油圧機器の作動油の圧力)を見ませんか」と提案する。

24分47秒:JAL123便が緊急救難信号スコーク7700」の無線信号を発信、信号は東京ACCに受信された。

25分:機長は東京航空交通管制部に羽田へ引き返すことを要求した。無線交信の後、機長が副操縦士に対し「バンク(傾き)そんなにとるなマニュアル(手動操縦)だから」「(バンクを)戻せ」と指示。しかし、副操縦士は「戻らない」と返答した。その際、航空機関士が油圧が異常に低下していることに気づいた。この時機体は、垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊され、補助動力装置も喪失、油圧操縦システムの4系統全てに損傷が及んだ結果、操縦システムに必要な作動油が全て流出し、油圧を使用したエレベーター(昇降舵)やエルロン(補助翼)の操舵が不能になった[注釈 10]

25分21秒:123便機長がトラブル発生の連絡とともに、羽田空港への帰還と22,000フィート (6,700 m) への降下を無線で要求、東京ACCはこれを了承。JAL123便は伊豆大島へのレーダー誘導を要求した。管制部は、右左どちらへの旋回をするか尋ねると、機長は右旋回を希望した。羽田空港は緊急着陸を迎え入れる準備に入った。

26分54秒:チーフパーサーは全客室乗務員に対し、機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示した[別添 2]

27分:異常発生からわずか3分足らずで航空機関士が「ハイドロプレッシャーオールロス(油圧全て喪失)」と発出(コールアウト)した[注釈 11]

機長らは異常発生直後から墜落まで、操縦不能になった理由を把握できていない模様であった。油圧系統全滅を認識しながらも油圧での操縦を試みていた[報告書 7]。同じころ、客室の気圧が減少していることを示す警報音が鳴っているため、とにかく低空へ降下しようとした。しかし、ほとんどコントロールができない機体にはフゴイド運動ダッチロールが生じ、ピッチングヨーイングローリングを繰り返した。DFDRには機首上げ角度20度 – 機首下げ15度、機体の傾き右60度 – 左50度の動きが記録されていた。

27分2秒:東京ACCが123便に緊急事態を宣言するか確認し、123便から宣言が出された。続いて123便に対してどのような緊急事態かを尋ねたが、応答はなかった。このため、東京ACCはJAL本社に123便が緊急信号を発信していることを知らせる。

28分31秒:東京ACCは123便に真東に向かうよう指示するが、機長は「But Now Uncontrol(現在操縦不能)」と応答。東京ACCは、このとき初めて123便が操縦不能に陥っていることを知る。管制室のスピーカーがONにされ、123便とのやり取りが管制室全体に共有される[18]

31分2秒:東京ACCからの降下が可能かの問いに対し、123便は降下中と回答。東京ACCは羽田空港より近く、旋回の必要も最低限で済む愛知県西春日井郡豊山町名古屋空港に緊急着陸を提案するが、123便は羽田に戻る[19]ことを希望する。航空機と地上との無線交信は英語で行われているが、管制部は123便の機長の負担を考え、母語である日本語の使用を許可。以後123便とは、ほとんど日本語で交信された。

31分40秒:航空機関士に対し客室乗務員から客室の収納スペースが破損したと報告が入る。33分、航空機関士が緊急降下(エマージェンシー・ディセンド)と酸素マスク着用を提案[注釈 12]、35分、羽田空港にある日航のオペレーションセンターとの交信では航空機関士が「R5(機体右側最後部)のドアがブロークン(破損)しました」と連絡している。

33分頃:JALはカンパニーラジオ(社内無線)で123便に交信を求める。

35分33秒:123便からR5のドアが破損したとの連絡があった後、その時点で緊急降下しているので、後ほど呼び出すまで無線を聴取するよう求められ、JALは了承した。

37分:機長がディセンド(降下)を指示するが機首は1,000m余りの上昇や降下を繰り返すなど、不安定な飛行を続けた。38分頃、これを回避するためにランディング・ギアを降ろそうとするが、油圧喪失のため降ろせなかった。

40分:航空機関士の提案で、バックアップシステムである電気系統を用いてランディング・ギアを降ろした[注釈 13]。機体は富士山東麓を北上し、山梨県大月市上空で急な右旋回をしながら、高度22,000フィート (6,700 m) から6,000フィート (1,800 m) へと降下[注釈 14]。その後、羽田方面に向かうものの、左旋回して群馬県南西部の山岳地帯へと向かい始める。機体はロール軸の振幅が縮小して多少安定した。

40分44秒:東京ACCが、123便と他機との交信を分けるため専用の無線交信周波数を割り当て、123便に周波数変更を求めたが、応答はなかった[注釈 15]

41分54秒:逆に123便を除く全機に対してその周波数に変更するよう求め、交信は指示があるまで避けるように求めた。だが一部の航空機は通常周波数で交信を続けたため、管制部は交信をする機に個別で指示し続けた。

45分36秒:航空無線を傍受していた横田基地が123便の支援に乗り出し、英語で123便にアメリカ空軍が用意した周波数に変更するよう求めたが、123便からは「Japan Air 123、Uncontrollable(JAL123便、操縦不能)」と応答した。東京ACCが「羽田にコンタクトしますか(東京APCと交信するか)」と123便に尋ねるが、123便は「このままでお願いします」と応答した。

46分:機長が「これはだめかも分からんね」と発言。やがて機体は山岳地帯上空へと迷走していく。47分頃からは彼らの中でも会話が頻繁になり、焦りが見え始めていた。右、左との方向転換が繰り返し指示される中で、操縦している副操縦士に対して機長が「山にぶつかるぞ」と叫ぶなど、緊迫した会話が数回記録されている。この時機体は6,000フィート (1,800 m) 前後をさまよっていた。48分頃には航空機関士が、操縦する副操縦士に「がんばれー」と励ますとともに、たびたび副操縦士の補助をしていた様子が記録されている。機長の機首下げの指示に対して副操縦士は「今舵いっぱい」と返答している。

47分10秒:123便は千葉県木更津市レーダーサイトに誘導するよう求め、東京ACCは真東へ進むよう指示し、「操縦可能か」と尋ねるが、123便は「アンコントローラブル(操縦不能)」と応答した。この時、東京ACCの管制官は123便との交信中に「ああっ」という叫び声を聞いたとされる[18]

49分:機首が39度に上がり、速度は108ノット (200 km/h) まで落ちて失速警報装置が作動した。このころから機体の安定感が崩れ、何度も機首の上げ下げを繰り返した。この間、機長が「あーダメだ。ストール(失速する)」と発言するまでに追い詰められながらも、諦めることなく「マックパワー(最大出力)、マックパワー、マックパワー」などと指示していた。

49分:JALがカンパニーラジオで3分間呼び出しを行ったが、応答はなかった。

50分:「スピードが出てます スピードが」と困惑する副操縦士に機長が「どーんといこうや」と激励の発言。機長の「頭下げろ、がんばれがんばれ」に対して副操縦士は「今コントロールいっぱいです」と叫んでいる。機長が「パワーでピッチはコントロールしないとだめ」と指示。エンジン推力により高度を変化させる操縦を始めたと思われるが、左右の出力差で方向を変えた形跡は見当たらなかった[報告書 8]。速度が頻繁に変化し不安定な飛行が続いたため、副操縦士が速度に関して頻繁に報告をしている。

51分:依然続くフゴイド運動を抑えるために電動でフラップが出され、53分頃から機体が安定し始めた。

53分30秒:東京ACCが123便に交信を求めるが、123便は「アンコントロール(操縦不能)」と応答。横田管制は「横田基地が緊急着陸の受け入れ準備に入っている」と通知。53分45秒、東京ACCが「周波数119.7に変えてください」と、東京APCの無線周波数へ変更するよう求め、123便は了承した。

54分:クルーは現在地を見失い[注釈 16]、航空機関士が羽田に現在地を尋ね、埼玉県 熊谷市から25マイル (40 km) 西の地点であると告げられる。その間、しばらく安定していた機体の機首が再び上がり、速度が180ノット (330 km/h) まで落ちた。出力と操縦桿の操作で機首下げを試みたが機首は下がらなかった。

54分25秒:123便は東京APCに現在地を尋ね、「羽田から55マイル (89 km) 北西で、熊谷市から25マイル (40 km) 西」と知らされた。

55分01秒:機長は副操縦士に「フラップおりるね?」と尋ね、副操縦士は「はいフラップ10(度下がっている)」と返答し、フラップを出し機体を水平に戻そうとした。

55分5秒:東京APCから123便に対し、「日本語にて申し上げます」と前置きし、「こちら(羽田)のほうは、アプローチレディ (approach ready) になっております。尚、横田と調整して横田ランディング (landing) もアベイラブル (available)になっております(羽田と横田で緊急着陸可能の意)」と知らせ、航空機関士が「はい了解しました」と応答、これが123便と地上との最後の交信となった。その直後に東京APCが「インテンション (intention) 聞かせてください」と、123便に今後の意向を尋ねたが応答はなかった。その後も東京APCと横田管制が123便に対して呼び出しを行ったが、応答はないままだった。

55分12秒:フラップを下げた途端、南西風にあおられて機体は右にそれながら急降下し始める。55分15秒から機長は機首上げを指示。43秒、機長が「フラップ止めな」と叫ぶまでフラップは最終的に25度まで下がり続けた。45秒、「あーっ!」という叫び声が記録されている。50秒頃、機長の「フラップみんなでくっついてちゃ駄目だ」との声に混じって副操縦士が「フラップアップ、フラップアップ」と叫び、すぐさまフラップを引き上げたがさらに降下率が上がった。この頃高度は10,000フィート (3,000 m) を切っていた。

56分00秒頃:機長がパワーとフラップを上げるよう指示するが航空機関士が「上げてます」と返答する。07秒頃には機首は36度も下がり、ロール角も最大80度を超えた。機長は最後まで「あたま上げろー、パワー」と指示し続けた。

56分7秒頃:わずかに機首を上げて上昇し始めた。

56分14秒:クルーの必死の努力も空しく機体は降下し続け、対地接近警報装置(GPWS)が作動。高度3000mから、1600mまで降下していた。

56分23秒:23秒の直前には「PULL UP(上昇せよ)」との警告音声とともに、機長の「もうダメだ」とも聞き取れる叫び声が記録されていた(報告書では機長の発言は「判読不能」とされていた)。右主翼と機体後部が尾根の樹木[注釈 17]と接触し、衝撃で第4エンジンが脱落した。このとき、機首を上げるためエンジン出力を上げたことと、急降下したことで、速度は340ノット (630 km/h) 以上に達していた[報告書 10][付録 1]。接触後、水切りのように一旦上昇したものの、機体は大きく機首を下げ右に傾き始め、その角度は70度にも達した。

56分26秒:機体は傾いたまま右主翼の先端が稜線[注釈 18]に激突し、衝撃で右主翼の先端とわずかに残る垂直尾翼と水平尾翼、第1・第2・第3エンジンが脱落。この時の衝撃と反動で、右主翼が稜線に引っかかる形で機体は前のめりに反転した。

56分28秒: 稜線に激突した衝撃で電源が落ち、フライトレコーダーとボイスレコーダーの記録はここで途絶える。

56分30秒:動力と尾翼を失った機体は高天原山の群馬県側北東の斜面にある尾根にほぼ裏返しの状態で衝突、墜落した。墜落時の衝撃[注釈 19]によって、機体前部から主翼付近の構造体は原形をとどめないほど破壊され、離断した両主翼とともに炎上した。機体客室後部が分離し、山の稜線を超えて斜面を滑落していった。客室後部は尾根への激突を免れて、斜面に平行に近い角度で着地し、樹木をなぎ倒しながら尾根の斜面を滑落して時間をかけて減速した。このため最大の衝撃が小さく、それ以外の部位と比較して軽度の損傷にとどまり火災も発生しなかった。これらの要因によって、客室後部の座席に座っていた乗客4名は奇跡的に生還できた。

57分:横田管制は123便に「貴機は横田の北西35マイル (56 km) 地点におり、横田基地に最優先で着陸できる」と呼びかけ、東京ACCも123便に横田基地に周波数を変更するよう求めたが、既に123便は墜落していた。

墜落したJA8119の残骸

Okuchichibu Mountains from Mt.Yokodake 01-4.jpg
画像の詳細

八ヶ岳横岳より見た秩父山地と墜落地点

捜索・救難活動

東京航空局東京空港事務所(羽田)は、123便の緊急事態発生を受けて東京救難調整本部 (Tokyo RCC)を開設し、123便の羽田への緊急着陸体制を整えた。その後、東京管制部のレーダーから消失(18時59分に受領)し、東京救難調整本部は、防衛庁警察庁消防庁海上保安庁などの関係機関に通報(19時03分)し、123便の捜索に当たった[報告書 11]

一方、レーダー消失直後は、まだ同機が低空飛行を続けている可能性も残されていたため、管制や社内無線からの呼びかけも続けられた[別添 2]

百里基地からF-4ファントム発進

航空自衛隊F-4戦闘機

18時28分頃、千葉県愛宕山航空自衛隊 中部航空警戒管制団第44警戒群(通称「峯岡山レーダーサイト」)でも、123便の緊急事態を表す「スコーク7700」を受信した。ただちに上級部隊である中部航空方面隊に報告され、航空救難で中心的な役割を果たす航空自衛隊の中央救難調整所 (RCC:Rescue Coordination Centre) が活動を開始した。

18時56分、123便が峯岡山レーダーサイトから消えたため当直司令は墜落したと判断。中部航空方面隊司令部に、123便の緊急事態を受信してスクランブル待機中のF-4EJファントムの発進を提案。19時01分、提案を了承した基地司令の指示で、茨城県東茨城郡小川町(現小美玉市)にある百里基地よりRF-4偵察機2機が発進した。

米軍輸送機が上空から火災を確認

米軍C-130輸送機

19時15分頃、付近を航行していた米空軍C-130 輸送機が東京都多摩にある横田基地の指令で付近を捜索、現場付近の山中に大きな火災を発見した。C-130は墜落現場上空を旋回し、横田 TACAN(タカン)方位305度・距離34マイル (55 km) を航空自衛隊中央救難調整所に通報した。

19時21分頃、F-4戦闘機2機も墜落現場の火災を発見し、上空位置の横田TACAN方位300度・距離32マイル (51 km) を通報した[報告書 11][20]

「横田TACAN」とは、横田基地に設置された極超短波電波標識(超短波全方向式無線標識)などの電波を受信し、航空機が現在の方位と距離を機上搭載の距離測定装置で計測し計器に表示させる航法援助施設である。これらの設備や機器は航空機の航法用として用いられていたが、当時はまだGPS等の衛星測位システムが実用化されておらず、正確な位置の計測は難しかった[注釈 20]

航空自衛隊救難隊の出動

航空自衛隊救難捜索機MU-2S

航空自衛隊救難隊KV-107

19時54分、茨城県の航空自衛隊 百里基地所属の救難隊が、MU-2S救難捜索機、KV-107ヘリコプターを、災害派遣要請がないまま発進。KV-107ヘリコプターは、20時42分に現場上空に到着した。

事故発生直後、事故現場上空で捜索救難活動を行った航空自衛隊百里救難隊所属の救難ヘリコプターKV-107で救援活動に携わった元自衛官メディック(救急医療従事者)の一人が回想録を記している[22][23]

救難隊は、2機のヘリコプターを交代で現場に派遣し、救難活動を行った。21時05分ごろ、第2次出動隊は現場に到着し、隊員を降下させる場所を探すため高高度での偵察を開始した。だが、墜落現場は無数の火柱が合わさって巨大な火炎となり、黒煙と闇夜でサーチライトを照射してもライトが届かず地上の様子がわからなかった。22時20分ごろ、中高度まで降下して再度降下地点を探したが、送電線に阻まれ選定できなかった[注釈 21]。23時頃、指揮所から「地上で立ち往生している数十台の消防車両を現場まで誘導せよ」と指示が入ったが、消防車と無線交信ができず、誘導は失敗した[22]

救難隊が現場上空で救助ができない理由を以下のように語っている[22]

偵察飛行を継続しながら、機上クルー間で他の救助方法での実行可能性について激論を交わした。主内容は、救難員のパラシュート森林降下、ホイストケーブルに救助用ロープを縛着しての高高度ラペリング降下、洋上救難に使用する照明弾の灯りにより視界を確保した上でのアプローチ、近くの村の広場への強行着陸等であったが、当時のパラシュートでは傘操縦性能が悪く、気流により巨大火炎の真っ只中へ着地してしまう恐れがある。また、強行着陸等も障害物の把握がされていない為、2次災害のリスクが大きくどれも実行可能性は難しいとの結論になった[22]


13日午前1時、埼玉県の入間基地に帰投していたKV-107ヘリコプターが再び現場に到着した。火炎等の状況は2時間前と殆ど変わっておらずアプローチは困難との判断だったが、現場偵察を続け、アプローチが可能になれば即座に進入できる体制は整えていた[22]。しかし、実際には午前5時の夜明けを過ぎても待機場所である入間基地を飛び立たず、午前6時半にようやく入間基地を発進、現場上空から焼損した尾根付近を目視で生存者の捜索を行った。その後のちに生存者が発見された菅の沢付近へと近づきホイスト降下(ホイストで降下し救難者を吊り上げることが可能)しようとした直後、陸上自衛隊第一空挺団リペリング降下(戦闘員がロープだけで降下する降下方法で吊り上げはできない)するので退去せよとの命令が無線で入り、現場を急遽離脱した。そのため、航空自衛隊救難隊のKV-107は後方支援にまわった[25]

このときの様子をのちの救難隊救難員の回顧録で以下のように語っている。

上空からの捜索では生存者の発見は困難と判断し救難員2名がホイスト降下することになった。救難員は、山岳進出の準備を完了し機長に対して「救難員降下準備よし!」と報告すると「了解」の応答に間髪入れず、「スタンバイ」「スタンバイ」「待て」と少し上ずったボイスに引き続いて「ブレーク(現場離脱)」「無線モニター」との連絡が入った。何かの緊急事態が発生したのではないかと耳を研ぎ澄ませて聞くと「間もなく、第1空挺団のレンジャー部隊がリペリング降下を実施する。現場にいる航空機は直ちに退去せよ。」とのことであった[25]

墜落後初めてのヘリコプターからの降下は午前8時30分の長野県警機動隊、2番目の降下が午前9時の陸上自衛隊第一空挺団からとなり、生存者の引き上げも陸上自衛隊のヘリで行っている。


実際の墜落位置:北緯35度59分54秒、東経138度41分49秒(事故調資料)

時刻発見者・発表者報告、活動計測位置墜落地点からの誤差
18時56分ごろ東京救難調整本部
運輸省航空局
レーダー消失地点
18時59分、自衛隊、警察、消防に通報
羽田方位308度59マイル
北緯36度02分、東経138度41分[報告書 11]
北約3.7km
18時56分ごろ航空自衛隊レーダー(千葉県南房総市愛宕山)消失地点横田TACAN
方位302度36マイル
東約9.4km
19時15分アメリカ空軍
C-130輸送機
火災発見横田TACAN
方位305度34マイル[報告書 11]
北東3km
19時21分航空自衛隊
F-4戦闘機
炎を確認横田TACAN
方位300度32マイル[解説 1]
南東約6km
20時42分航空自衛隊救難隊
KV-107ヘリコプター
炎を確認横田TACAN
方位299度35.5マイル[解説 1]
南西4km
21時10分朝日新聞社ヘリコプター
「ちよどり」
報道取材で現場上空に到着、炎を確認羽田方位304度60マイル[26]
23時35分朝日新聞社ヘリコプター
「ちよどり」
報道取材、自衛隊が運輸省に通報した御座山付近には墜落の形跡がないことを確認[27]羽田方位304度60マイル[28]
01時00分航空自衛隊救難隊
KV-107ヘリコプター
地上の捜索隊(警察)を誘導しようとしたが失敗入間TACAN
方位291度36.3マイル[解説 1]
南南西2km
04時39分航空自衛隊救難隊
KV-107ヘリコプター
上空より墜落現場確認[報告書 11]三国山西約3km
扇平山北約1km[解説 1]
南西3km
05時00分陸上自衛隊
HU-1Bヘリコプター
日の出とともに上空より墜落現場確認三国山北西約2km[解説 1]南南東1km以下
05時33分航空自衛隊
KV-107ヘリコプター
上空より墜落現場確認三国峠方位340度3km[解説 1]北北東1km
05時37分長野県警察ヘリコプター上空より墜落現場確認[報告書 11]
08時30分長野県警察ヘリコプター墜落現場に機動隊員2名ラペリング降下
09時00分陸上自衛隊
ヘリコプター
墜落現場に空挺団員降下:陸路で捜索隊到着
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本航空123便墜落事故

続きは日本航空123便墜落事故についての考察#2へ

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