北原遥子さんの退団原因
退団原因に日本テレビが絡んでるのはご存知でしょうか?
無断テレビ出演事件は、前年、1983年の9月にさかのぼる。
後日、母が娘から聞いた事実関係はこうである。
「その頃、知人を通して知り合いになったあるプロダクションの女性プロデューサーから、テレビドラマのカメラ・テストを受けてみないかと言われ、由美子は、あまり深く考えず出かけて行ったそうです」
カメラ・テストのつもりで行ったところが、現場では本番を収録していて、プロデューサーから、他の人は用意していなかったからと、無理やり出演を頼まれる。それでも断ろうとする彼女を、「セリフはないし、顔は花瓶の花で隠れるように撮ってもらうから、大丈夫」とプロデューサーが説得、押し切られる形で、撮影されてしまった。だが、画面には花とともに若い女性の姿がくっきりと映り込み、彼女を知るものなら誰でもそれとわかる形で編集されてしまう。
劇団は、宝塚企画という劇団のマネジメント部門を通さない外部出演を、一切認めてはいなかった。なりゆきとはいえ間違いなく由美子はここでルール違反をおかしてしまった。そして何カ月かのちには、それがブラウン管を通して白日のもとにさらされしまうことを彼女は知った。
http://bbkids.cocolog-nifty.com/takarazuka/2007/06/post_5313.html
退団後の北原さんの仕事は順調そのものでゴタゴタした退団の割にはcmや映画など当時の人気っぷりが窺えます。
小学3年生の時から体操を始める。1973年(昭和48年)、小学校6年生の時に全日本ジュニア体操選手権優勝。14歳で女子ジュニア体操日本代表に選出され各国際大会にも出場したが、怪我により体操を引退。1979年(昭和54年)、神奈川県立横浜平沼高等学校2年修了後に宝塚音楽学校入学。1981年(昭和56年)、宝塚歌劇団に67期生として入団。入団時の舞台名は北原 遙子(きたはら ようこ)。雪組に配属。入団直後の1981年(昭和56年)9月宝塚バウホール公演『暁のロンバルディア』準ヒロイン・ソフィア役に抜擢されたのをきっかけに男役から娘役に転向。その後、舞台名を北原 遥子(きたはら ようこ)に変更。宝塚歌劇団側からの了承を得ずに1984年(昭和59年)3月8日に放送の讀賣テレビ放送・日本テレビ木曜ゴールデンドラマ『密会』に出演をしたことがきっかけとなり宝塚歌劇団を退団した[1]。其田事務所に所属、芸能界入り、女優として活動。1985年(昭和60年)8月12日、日本航空123便墜落事故で死去。24歳没。1986年(昭和61年)、第27回クリオ賞を受賞。
宝塚歌劇団時代の主な舞台
- 1981年
- 4月 – 『宝塚春の踊り〈花の子供風土記〉』/『ファースト・ラブ』 – 初舞台。
- 8月 – 『彷徨のレクイエム』(東京公演)
- 9月 – 『暁のロンバルディア』(バウホール公演)ソフィア 役
- 11月 – 『かもめ翔ぶ海』新人公演:千賀 役(本役:鳩笛真希)/『サン・オリエント・サン』スーフィー 役
- 1982年
- 1月 – 『素顔のまゝで…』(バウホール公演)リリー 役
- 5月 – 『ジャワの踊り子』新人公演:アルヴィア 役(本役:遥くらら) – 新人公演初ヒロイン。
- 11月 – 『パリ変奏曲』新人公演:リリー 役(本役:遥くらら)/『ゴールデン・ドリーム』
- 1983年
- 5月 – 『うたかたの恋』ミリー・ステュベル 役/新人公演:マリー・ヴェッツェラ 役(本役:遥くらら)/『グラン・エレガンス』
- 8月 – 『ブルー・ジャスミン』トゥルキーヤ 役/新人公演:ローナ・モレル 役(本役:遥くらら)/『ハッピーエンド物語』
- 10月 – 『恋のトリコロール』 ブリジット 役 – 宝塚バウホール公演初ヒロイン。
- 1984年
- 2月 – 『うたかたの恋』ミリー・ステュベル 役/『ハッピーエンド物語』(中日劇場公演)
出演番組
- OH!タカラヅカ (1981年8月 – 12月 関西テレビ)
- おはよう朝日です・土曜日です (1982年1月 – 1983年7月 ABC)
- 木曜ゴールデンドラマ 密会(1984年3月8日、讀賣テレビ放送・日本テレビ)[1]
宝塚歌劇団退団後の主な活動
舞台
- カサノバ’85(1985年)アンリエッタ/ヘンリエッタ 役
映画
- ザ・オーディション(1984年) 津川奈緒子 役
CM
脚注
外部リンク
https://enpedia.rxy.jp/wiki/北原遥子
- 北原遥子 – スタ☆スケ(ザテレビジョン)
- 北原遥子 – 映画.com
- 北原遥子 – Movie Walker
- 北原遥子 – KINENOTE
- 北原遥子 – テレビドラマデータベース
時期的に言えば日テレですねー
宝塚に挑戦する前は、彼女はちょっと名の知れた体操選手でした。高校の神奈川県大会で優勝したとかいう成績でしたから、オリンピックとまではいわずとも、全日本選手権で活躍するくらいなら全く現実的でない目標ではなかったかもしれません。日本はモスクワ大会をボイコットしましたから、どっちみち彼女はオリンピックにはいけなかったでしょうが。また、時代はチャスラフスカ(前記事を書きました)のような女性らしい肉体の選手より、コマネチのような骨と皮のような選手が主流の時代になり、小学校6年生当時身長158cm、体重48Kgという彼女は、体操選手としての自分の将来にやや限界を感じていたのでしょう。
で、その記事を読んでいて「おや」と思う記述がありました。宝塚の女役として将来を嘱望されていた1983年の話です。
>しかし、あるテレビドラマのカメラテストを受けるよう依頼されて出かけた先で、本番の撮影の被写体になることを頼まれ、顔を映さない条件で応じたもののその約束は守られず、結果的に出演と言うことになってしまった。劇団を通して事前の出演依頼がなかったことで歌劇団の規定に明らかに違反する事態であり、歌劇団とTV側の意見の食い違いの責任を北原が取らされる形で退団が決定(事実上の懲戒免職である)。病気と言う名目で(同年の『風と共に去りぬ』)謹慎休演後の退団で、最後の舞台を踏むことも、袴姿でのファンへの挨拶もできず、本人は大変悔やんでいたという。
けっきょく彼女は、宝塚に在籍していたのは5年、実際に舞台で活躍したのは3年でしかありませんでした。
で、このwikipediaの記事はいろいろぼかされている部分もありますが、実態は下のようなものだったようですね。彼女について取材した本より。なお引用文中、漢数字は算用数字に、年号の元号は西暦に変えさせていただきました。また、段落にはスペースを入れました。
>一枚の新聞記事を母は見せてくれた。この記事が由美子(引用者注:北原の本名)から聞いた事実をかなり正確に伝えていると思います」
*「サンケイスポーツ」1984年5月2日付
宝塚歌劇団雪組のホープ、北原遥子(きたはらようこ)=本名・吉田由美子(23)=が退団する。北原は、体調不良を理由に、現在大劇 場で公演中の『風と共に去りぬ』(5月8日まで)を休んでおり、17日、歌劇団に退団 届を提出、受理された。歌劇団では、退団は「あくまでも本人の意思です」といっているが、北原が歌劇団に無断でテレビドラマ出演したのが、原因と見られている。
北原は81年4月に初舞台。翌年1月には早くも、朝日テレビ系「おはよう朝日・土曜日です」のアシスタントに起用されたホープ。清楚な美人で、将来の娘役トップスターと目されていた。3月23日から始まった『風と共に去りぬ』でも、準主役のファニー・エルシング役に抜擢されていたが、3月9日放送の読売テレビ系ゴールデンドラマ「密会」に、歌劇団に無断で出演していたことから急きょ役を降ろされた。
宝塚歌劇団では生徒(劇団員)が外部出演するときはすべて宝塚企画を通し、ここでとりしきることになっている。北原は、その許可とらずに、日頃親しくしている東京のプロダクション「愛企画」の吉川愛美社長のマネジメントで、「密会」に出演。役は宅間伸のお見合い相手として2,3シーン。セリフはなかった。
歌劇団では、北原遥子の退団について”本人の意思”を主張。「(北原は)歌がうまくないし、貧血気味で体調も不十分なので、やめさせてほしいといってきた」と、いってある(引用者注:原文のまま)。しかし、北原は「密会」の放送直後、『風と共に去りぬ』のケイコ中に呼び出されて休演を通告されており、”テレビ出演”が原因との見方が広まっている。
無断テレビ出演事件は、前年の9月にさかのぼる。
後日、母が娘から聞いた事実関係はこうである。
「その頃、知人を通して知り合いになったあるプロダクションの女性プロデューサーから、テレビドラマのカメラテストを受けてみないかと言われ、由美子は、あまり深く考えず出かけていったそうです」
カメラテストのつもりで行ったところが、現場では本番を収録していて、プロデューサーから、ほかの人は用意していなかったからと、無理やり出演を頼まれる。それでも断ろうとする彼女を、「セリフはないし、顔は花瓶の花で隠れるように撮ってもらうから、大丈夫」とプロデューサーが説得、押し切られる形で撮影されてしまった。だが、画面には花とともに若い女性の姿がくっきりと映り込み、彼女を知る者ならだれでもそれと分かる形で編集されてしまう。(p.135~p.137)
このときに彼女のマネージャーみたいな人(つまり、宝塚歌劇団の立場を代理できる人)もいなかったようですね。そしてあるいは勘違いその他があったのかもしれませんが、けっきょく彼女が懲戒解雇に近い状態で宝塚歌劇団を追い出されたとなると、それはどうもなあです。撮影の時点で、宝塚側に連絡を取って事情を説明すれば、またちがった展開になったのでしょうが。
しかしこの撮影の話はひどいですね(呆れ)。関係者に話を聞けば「いや、それは違う」ということになるかもしれませんが、北原の立場からすれば、これはこのプロダクションのプロデューサーその他に損害賠償請求ものじゃないんですか? 裁判で勝てるかどうかは分かりませんが、どうみてもこのプロデューサーの責任は甚大です。宝塚が、その団員の芸能活動にはかならず歌劇団に事前に話を通すなんてことは、宝塚になんの知識のない私だって知っている程度の話ですし(いまもそうなのかな?)、まさか芸能関係者が知らないなんてことはありえません。このプロデューサーが彼女をはめようとしてここまでやったのかどうかはわかりませんが、それにしてもどこまで他人に迷惑をかけるんだか。非常識にもほどがあるというものです。ちなみに、ドラマで彼女の相手役だった宅間伸は、現在も件の「愛企画」所属のタレントです。やっぱり北原ははめられたんですかね。
https://blog.goo.ne.jp/mccreary/e/8b5172c168f5018f0aed6a7a647e0102
真相はタイムマシンにのってその現場に行かなければ分かりはしないでしょうが、すくなくとも彼女が好きで宝塚を出て行ったわけではありません。もちろん私は、この件で北原側に問題がなかったとは思いませんよ。むしろ彼女の対応に相当な不備はあったと思います。
本の中で著者も指摘(p.137)しているように、最悪でも撮影があった後早急に宝塚歌劇団側に報告していれば、退団は免れない事態になったとしても、ある程度円満な退団という形でおさめることができたのではと思います。報告が遅くなって決まっていた役を降ろされるという最悪の形になり、彼女は金融機関のイメージキャラクターをつとめるくらい期待されていた立場でもあり、クライアントにも迷惑がかかったので、宝塚側も厳しい対応になったのであろうかと思います。
ただ、彼女は知的能力は高い女性だったと思いますが、高校を2年で中退して、その後宝塚に入った当時22歳の女性ですからねえ…。つまりは一般の大学4年生の女性より、たぶんはるかに世間にうといわけで、しかも宝塚という特殊な世界での生活でしたから、まずい事態になった場合に自分が損をしないためには(そして宝塚にも迷惑をかけないためには)どう行動をすればいいかといったことにもなかなか知恵がまわらなかったのでしょう。
(3)吉田由美子さんの人生を狂わせた「愛企画」の吉川愛美社長
私が千葉県習志野市の習志野市立習志野高等学校の教諭となった1983年の9月、吉田由美子さんが知人を通して知り合いになった東京の芸能プロダクション「愛企画」の吉川愛美プロデューサー<社長>から、「テレビドラマのカメラテストを受けてみないか」と言われ、吉田由美子さんはあまり深く考えずにスタジオへ出かけていった。
http://blog.goo.ne.jp/mccreary/e/8b5172c168f5018f0aed6a7a647e0102
カメラテストのつもりで行ったところが、現場では本番を収録していて、吉川愛美プロデューサーから、ほかの人は用意していなかったからと、無理やり出演を頼まれる。それでも断ろうとする彼女を、「セリフはないし、顔は花瓶の花で隠れるように撮ってもらうから、大丈夫」と吉川愛美プロデューサーが説得、押し切られる形で撮影されてしまった。だが、画面には花とともに若い女性の姿がくっきりと映り込み、彼女を知る者ならだれでもそれと分かる形で編集されてしまった。(『由美子へ』取材ノート―レクイエム北原遥子 榊原和子著p.135~p.137)
http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8E%E7%94%B1%E7%BE%8E%E5%AD%90%E3%81%B8%E3%80%8F%E5%8F%96%E6%9D%90%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88%E2%80%95%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%A0%E5%8C%97%E5%8E%9F%E9%81%A5%E5%AD%90-%E6%A6%8A%E5%8E%9F-%E5%92%8C%E5%AD%90/dp/4787272470
吉田由美子さんが無理矢理出演させられた番組は、読売テレビ系ゴールデンドラマ「密会」であった。北原遥子こと吉田由美子さんは宅間伸のお見合い相手として2,3シーン登場しセリフはなかった。
ウィキペディアにも記載されている通り、吉川愛美プロデューサーより本番の撮影の被写体として無理やり出演を頼まれ、何度も断ったものの「台詞はない、顔も映さない」と言われ渋々応じたのに、その約束は守られず結果的に出演という形になってしまった。劇団を通して事前の出演依頼がなかったことで宝塚歌劇団の規定に違反する事態となり、1984年、吉田由美子さんは、事実上、宝塚歌劇団を懲戒免職となってしまった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8E%9F%E9%81%A5%E5%AD%90
(4)吉田由美子さんの人生を終わらせた日本航空123便墜落事故<御巣鷹山事変>
宝塚歌劇団退団後の吉田由美子さんは、当時石立鉄男、市毛良枝、夏目雅子らが所属していた其田事務所に所属し、夏目雅子の妹分として多方面で活躍した。また、吉田由美子さんは、私が都立高校の教諭になった1985年の11月に放送される予定だった東芝日曜劇場1500回記念ドラマ「星の旅人たち」の主演も決定し将来を嘱望されていた。
そのような吉田由美子さんの人生を終わらせたのが1985年8月12日に起きた日本航空123便墜落<墜落というより「撃墜」と表現した方が良いかも>事故<御巣鷹山事変>だった。わずか24年の短い生涯を閉じた。死因は脳挫傷と内臓破裂とされている。横浜の実家にお盆で帰省した後、在阪の友人に会いに行くための搭乗だったという。
1985年8月12日、黒木瞳は東京宝塚劇場で舞台に立っていた。楽屋に北原<吉田由美子さん>から電話がかかった。「これから大阪に行くの」「明日、会おうね」
その夜、黒木はニュースで日航ジャンボ機墜落を知る。もしかして……。北原の実家に電話した。ずっと、話し中。何度も何度もかけ直す。やっと親類の人が出た。不安は的中していた。
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-664.html
日テレといえばCIAエージェントの正力松太郎が作ったメディアでCIAや統一教会、ジャニーズや研音と関係の深い会社さんですよね。
やろうと思えばいくらでもこの退団劇を演出できます。
徳をするのは誰でしょう?
テレ朝の番組をやるほど劇団に押されてた北原さんと双璧をなすのは、同じく番組を一緒にやってた黒木さんじゃないかと私は思ってます。
黒木さんと違って本当に人気があった北原さんがトップ確実視されてたこの時にスキャンダルで退団…
出来杉くんですー
正直言って宝塚を退団させるためにこれを仕掛けたんじゃないかと思ってますー
そしてこの吉川愛美って人と愛企画って怪しいですよねー🏺?🏺?
うーん調べても統一教会の名前は出てこない….うーん
電通?電通?
そういや黒木🏺みさんって退団直後に岡田真澄さんと不倫がスクープされて、あれを週刊誌に垂れ込んだのが自分だとバレて売名野郎って話題になってましたよね?
もしかして在団中から、いやもっと前から伊地知さんと繋がりがあって名女優になるまでバックアップするという見返りを条件に伊地知さんの指示で動いていた?というか電通の指示で動いていたってのが推測できますね。
ということ渡辺淳一さんとの蜜月も仕事を得るため、芸能界でのしあがるためだったってことですかね?
私の推論が正しかったとしたらクソやばですねこの一家、ぶっ壊れてる
今回の考察は以上です〜